| ご鑑賞の手引き(洋遊会大島町記念公演) | |
| ご来場ありがとうございます。115年という大島町の歴史の古さに驚いております。洋遊会も今年で143年の歴史がありますが、大島町での公演は初めてです。私どもも張り切っておりますので、ゆっくりとご鑑賞ください。
平安時代には、宮中に2つの楽所(オーケストラ兼バレエ団のようなもの)が作られました。これを左方の楽所と右方の楽所と言います。雅楽の曲舞はこの2つの楽所のどちらかのレパートリーに分けられ、2つは競い合って宮中の式典や行事で演奏しました。また、楽所の楽師(音楽家)が先生となって雅楽は貴族の生活に溶け込み、完成されました。
演奏曲目 第一部 左方の舞 賀殿急 金の模様を散らした緑色の兜に緋色の装束を付けた4人の華麗な舞です。入場、当曲、退出の3つの部分を上演します。急というのは長い舞のおしまいの部分を指す言葉です。この舞は唐から伝わった祭典用の舞です。藤原貞敏という平安時代初期の遣唐使が伝えました。この人は音楽を目的に留学した人で、琵琶の名器、「玄象」と「青山」を日本に持ち帰ったことでも有名です。この2つの琵琶の話は昔の物語や謡曲によく登場します。 「賀殿」は神社やお寺の落慶式典や御殿の落成、創立記念のお祝いによく上演されます。江戸時代の政治家、新井白石の研究では、唐のひとつ前の隋の時代、黄河と長江(揚子江)を結ぶ大運河ができた時にお祝いとして「河伝」という舞が作られた記録があり、これがおそらくこの「賀殿」の舞だろうとのことです。それが本当ならいっそう創立記念にふさわしい舞ということになります。 第二部 楽器紹介、管絃および朗詠
1.楽器紹介 2.管絃および朗詠 舞を伴わない雅楽を管絃と言います。絃楽器が加わることが特徴です。平安時代、舞は特別な儀式や公式行事の場で、専門の楽師を中心に上演されるものでした。これに対して、管絃や歌曲は貴族の日常生活の楽しみとして、親しい仲間で演奏されました。そんな雰囲気をかもし出してみたいと思います。(1)平調の音取 これは実は正式な曲ではなく音合わせです。西洋のオーケストラも開演前に舞台で全員が音合わせをします。雅楽ではいろいろな調子(西洋音楽のハ長調、ニ短調のようなもの)ごとに、音合わせ用の曲があり、その曲を音取と言います。これはそのうち唐楽の平調(西洋音楽のホ長調に近い)の音取で、1分ぐらいの曲です。音取を演奏することによって、音を合わせるとともに次の曲が平調の曲であることを示し、演奏者と聴衆の雰囲気を盛り上げるわけです。(2)越天楽 有名な越天楽を演奏します。越殿楽とも書かれます。雅楽と言えば、この曲しか知らない人がほとんどだと思います。結婚式などで聴かれることも多いでしょう。明治11年に明治天皇が福岡町へ行幸された時、ご休息所で洋遊会が越天楽を演奏したことが福岡町史に書かれており、我々にとっても記念の曲です。もとは中国の西域(シルクロードに沿った地方)の音楽だったとのことです。 (3)朗詠「嘉辰」 朗詠とは、平安時代の詩吟で、雅楽の伴奏がついています。平安朝の貴族は祝宴や風流の遊びで、さかんに漢詩や和歌を朗詠しました。平安中期には人気のある文句を集めた朗詠用の本、「和漢朗詠集」が編纂されました。現代で言えばカラオケ用の歌詞ブックのようなものです。「嘉辰」はその中でも、一番の人気曲でした。紫式部日記には、関白の藤原道長が孫の誕生を喜んでこの曲を繰り返し朗詠する場面が出てきます。歌詞は「嘉辰令月歓無極 万歳千秋楽未央」というものです。 「星がきれいで月が美しく、私の喜びは限りがない。千年歌っても万年歌っても、楽しみは半分も終わらない」という意味で、お祝いの歌詞です。普通の漢詩は「国破れて山河在り」のように読み下しにされますが、この曲は全く音読みで歌われ、お経と似ています。漢詩の読み方は、このほうが古い形なのかもしれません。 (4)抜頭 この曲は林邑楽と言って奈良時代にベトナムから伝わった曲だとされています。長い髪の毛の面を使う、大変面白い舞があるのですが、本日は管絃で演奏します。只拍子という割に軽快なリズムなので、昔から管絃の遊びでも人気がありました。抜頭というのは意味がよく分かっていません。いろいろな説があり、古代インドの「リグーヴェーダ」という神話文学に登場するパドゥという神様のことだという説もあります。 第三部 舞楽 1 左方の舞 蘭陵王 面をつけた一人の舞です。雅楽の中には走舞と呼ばれる舞がいくつかあり、蘭陵王は走舞の代表的なものです。打楽器のリズム中心の入場曲、全体の合奏とともに舞う当曲、それから退出曲の3つの部分より成ります。この舞については古い楽書に故事が書かれています。6世紀頃、中国の北斉という国の名将、蘭陵王長恭はあまりに端正な美男子だったので、戦場では勇猛さを強調するためにグロテスクな面をつけていました。この舞は面をつけた蘭陵王の奮戦の場面をあらわしたものと書かれています。蘭陵王は北斉の王族、高長恭という実在の人物で軍を大勝利に導いたことも史実です。しかし、別の楽書ではこの舞がベトナムから伝わったと書かれており、実は古代南アジアの龍王の舞なのではないかという説もあります。 堂々とした舞いぶりと絢爛豪華な装束から、昔から人気の高い舞でした。平安文学に一番よく登場するのもこの舞です。厳島神社の水上舞台の写真などで、ご覧になった方も多いと思います。2 右方の舞 陪臚 この曲は起源が南アジアです。奈良時代に天竺(今のインド)の婆羅門僧正(本名菩提遷那)と林邑(ベトナム)の仏哲という2人の僧が日本へ伝えたことが、正史、日本後記に書かれています。インドは仏教発祥の地ですが、ベトナムも当時高い文明を持つ仏教国でした。曲名も多分、インドかベトナムの言葉でしょう。婆羅門僧正は東大寺大仏の落慶法要で導師を務めた僧で、落慶法要ではこの陪臚も上演されました。 古来、戦勝祈願の曲とされ、出陣の前にはこの曲を演奏したのだと言われています。古代人は音楽の持つ神秘のパワーを本気で信じていました。だから当時、大国から戦勝祈願の曲を習うということは、今で言えばミサイルや最新兵器を輸入するような意味があったのでしょう。曲の途中で、舞人が剣をおさめ、おごそかにひざまずくところがあります。昔はここで戦勝のご祈祷をしたのではないかと想像されます。 平家物語、一の谷の部分で熊谷直実が平敦盛を斬った後、敦盛の鎧についていた小枝という笛(いわゆる青葉の笛)を見つけるところがあります。「今朝、平家の陣中から雅楽の音が聴こえたのは、この人たちが演奏していたのか。なるほど貴族というのは優美なものだ」と熊谷が感動する有名な場面です。平家の陣中では、その朝、あるいはこの曲で戦勝祈願をやっていたのかもしれません。この舞の最後を見ていると、舞い終わった公達が鉾と楯を持ってそのまま出陣して行くような感じにとらわれます。 洋遊会の紹介 明治11年(1878)、明治天皇が岩倉具視、大隈重信らを伴い北陸地方をご巡幸され、福岡町の島田七郎平邸(現在福岡町施設、島田邸矢水宛)でご休息を取られました。その際に暢日連は五常楽、越天楽を演奏し、ご一行を大変喜ばせました。その時使用を許された菊のご紋章入りの幟が現在も洋遊会に保存されています。これを機会に町で雅楽が大変盛んになり、宮内省との交流が生まれました。 大正8年(1919)、当時の指導者川島静哉が宮内省楽師、東儀俊義の意見により会名を「洋遊会」と改めました。さらに、舞楽面、装束、楽器、古文書、楽譜等を収集し、数々の舞を習得して全国的にも珍しい、舞楽を完全に行える民間雅楽団体に成長させました。その後、京都の社寺に招かれ舞楽を行うなど、全国的な活躍を続けました。 戦後は一時的に会員の減少などに直面しましたが、昭和45年(1970)に福岡町の無形文化財に指定された結果、再び町民の間に雅楽を支援する気運が高まり、現在も盛んな活動を続けています。平成12年(2000)の英国ヨークシャー公演は大好評を博し、BBCテレビで絶賛されました。
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