手よりの装束雅楽に貢献した家康の作戦

わが洋遊会には現在6種類、17領の舞楽装束がある。たった17領と思われるかもしれないが、1領の装束を作るにも場合によってはロールスロイス1台くらいの費用がかかるのだから、洋遊会の先人たちの苦労が思いやられる。

しかし、考えようによっては舞楽装束はそう高くないのかもしれない。これの製作技術を千年以上伝えた労力をコスト換算してみれば大変なものだ。そもそも舞楽装束なんてそんなにしょっちゅう売れるものではない。かなり以前にこんな経験がある。舞楽装束がほころびたので、修理をしなければならない。畳紙(たとうし)(包み紙のこと)に京都の装束店の名が書いてある。104番で番号を確かめ、そこへ電話したところかなりのおじいさんが出てきた。装束の話をしたら、記録とかを確かめもせず、「はい、洋遊会様のその舞楽装束は大正の頃に手前どもでお作りしたものでございます」との返事。おじいさんの記憶力もすごいが、ちゃんと記憶しているほど舞楽装束はめったに売れないものなのだと改めて感心した。

宝井其角(きかく)の句に「鐘ひとつ 売れぬ日はなし 江戸の春」

というのがある。歌舞伎、「助六」のせりふにも出てくる有名な句だが、めったに売れることのないお寺の鐘でも江戸では毎日ひとつぐらいは商売が成り立つという、江戸の経済的繁栄をあらわしたものらしい。其角が種にしたお寺の鐘以上に、舞楽装束は売れないものだったのではないだろうか。江戸っ子だってお寺の鐘は知っていても、たぶん舞楽装束を見たことは無いはずだ。何十年に1度しか売れないものの技術をどうやって今に伝えたのか、ロールスロイスの技術者もこれには頭を下げると思う。

宮内庁のある先生が洋遊会の装束を見て、「これは素晴らしい。手よりですね」とおっしゃった。手織りというのは珍しくないが、糸をよる段階から手よりの装束というのは、現代ではほとんど無いそうだ。「四天王寺の舞楽装束がやっぱり手よりです。豊臣秀頼の寄進したものですが、今の装束の手本になっています」。聞いて思い当たった。知ってのとおり、徳川家康は大坂城に残る秀吉の遺産を減らすため、豊臣秀頼にさかんに寺々の造営や寄進を命じた。それらのうち、方広寺の鐘につけた、「国家安康」の銘が口実になってとうとう豊臣家は滅ぼされてしまった。「なるほど舞楽装束にまで、金を使わされていたのか」。なんだか秀頼が哀れになった。もっとも、そのおかげで今日の手本になる舞楽装束が残ったのだから、家康の作戦は雅楽に貢献したのかもしれない。(平成13年6月6日掲載)

 

掲載あとがき

舞楽装束は時代により、かなり色目や模様などの変遷があります。正倉院に残る装束は、現在とは形も相当違っているし、源氏物語の頃には柔装束(のうしょうぞく)と言う、ノリをきかせない装束だったことは「信西古楽図」などに描かれています。また、昔は舞う人の身分によって色の制約があり、たとえば四人舞が四人ともおそろいというわけにも行かなかったのだそうです。四天王寺に残る秀頼寄進の装束あたりから、ようやく現代につながるものに固定されていくとのことですから、確かに家康と秀頼の功績(?)は大きかったのかもしれません。

洋遊会は国、県、町の補助により、昨年かなり面や装束を修理新調致しました。これは家康の作戦などとは違って、我々の長年の活動を評価いただいた上での、地域文化興隆の援助で何の下心もありません。全くありがたいことと思っております。

(さて、この「1,300年のクラシック」は2003年6月に富山新聞から冊子として刊行されました。このホームページでは今後も内容を抜粋して、本文には無いあと書きつきで、いくつかご紹介します。ただ、本文には写真がないとわからない記述もかなり多いので、それらはここでご紹介できません。できれば刊行された本文もご覧ください。東京では丸の内、東京海上ビルのワタナベ書店、3214-1803で扱っています。また、図書館はすぐ取り寄せてくれるそうですので、最寄りの図書館で頼んでみてください)。

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