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万葉集の時代の日本人はつくづく勉強熱心だったのだと思います。雅楽が今の形になったのは平安朝の宮中ですが、その材料の舞や音楽の多くは、大和朝廷から奈良時代にかけて、万葉の頃の人たちによって近隣諸国から取り入れられたものです。その一方、古代から宮廷などにあった日本独自の音楽もしっかり後世に伝えられました。明治の日本にちょっと似た、活力あふれる時代だったのでしょう。 本日の演目は、雅楽の中でも万葉時代の雰囲気を色濃く残すものばかりです。
第一部 舞楽 陪臚(ばいろ) 演奏:洋遊会 天平勝宝4年(西暦 752 年)、日本の一大国家プロジェクトだった奈良の東大寺大仏が完成し、落慶法要が華々しく行われました。陪臚はその法要で舞われた舞です。法要の導師をつとめた 天竺 ( てんじく ) (今のインド)の 婆羅門 ( ばらもん ) 僧正(本名 菩提 ( ぼだい ) 僊那 ( せんな ) )と 林邑 ( りんゆう ) 国(ベトナム)の仏哲が日本へこの舞を伝えたと正史、 日本 ( にほん ) 後記 ( こうき ) に書かれています。インド、ベトナムとも当時高い文明を持つ仏教国でした。曲名もおそらく、どちらかの国の言葉なのでしょう。その意味はわかっていません。 大仏様の落慶法要にしてはこの陪臚、ずいぶん勇ましい舞です。 鉾 ( ほこ ) と 楯 ( たて ) を持ち、剣を帯びた4人の 舞で、入場、破、急の3つの部分から成ります。 実は東大寺の正式な寺号は「 金 ( こん ) 光明 ( こうみょう ) 四天王 ( してんのう ) 護国之寺 ( ごこくのてら ) 」というそうです。この舞は本来、仏法を守護する軍神である毘沙門天、持国天など四天王の舞だったものと思われます。その後、 日本では 戦勝祈願の舞として尊重されました。 天平勝宝4年は、大伴 家持 ( やかもち ) が越中の国司の任期が明けて奈良の都へ帰った翌年です。おそらく法要には家持も 連 ( つら ) なっていたのでしょうが、当日は残念ながら一首の歌も残していません。高級官僚の家持は式典に忙しくて、歌を作る暇がなかったのかもしれません。
第二部 御神楽(みかぐら) 東京楽所、洋遊会共演 神楽と言うとおかめやひょっとこを連想されるかもしれません。ここで演奏する宮中の神楽はそれとは違い、 篳篥 ( ひちりき ) や 和琴 ( わごん ) を伴奏にする荘重なものです。一般の神社で行われる里神楽にたいして 御神楽 ( みかぐら ) と呼ばれています。宮中で最も重要な鎮魂の神事の一つ、「御神楽の儀」の後半で使われる曲からいくつかを選んで演奏いたします。 つい近年まで秘曲として行われていたものだけに、解説はなかなか困難です。そもそも、本来は神様だけに聴かせるもので、人には聴かせないものだったのです。戦前の大国文学者、折口 信夫 ( しのぶ ) 博士は何とかしてこの神楽を聴こうと宮内省に交渉し、宮中皇霊殿の 篝 ( かがり ) 火炊きの役になって、 烏帽子 ( えぼし ) に 仕丁 ( しちょう ) 姿の装束で薪をくべながら聴いたという逸話があります。 大陸から外来音楽が入ってくる奈良時代以前に既に日本にあった音楽ですから、万葉集時代、さらには神話の時代の雰囲気を強く感じさせます。
星音取(ほしのねとり) 二日間にわたる御神楽の儀は、最後の部分が神事に降臨した神々がお帰りになる、「神送り」の部分です。深夜に篝火のもとで行われます。その開始を告げるのが 星音取 ( ほしのねとり ) で、神楽笛、篳篥、 和琴 ( わごん ) それぞれが独奏します。 長い曲ではありませんが聴くものを一気に太古の昔に誘い込むような曲です。 其駒三度拍子(そのこまさんどびょうし) 本来、「神送り」部分にはたくさんの曲が続きますが、それを割愛し最後の歌のみ演奏します。「 其駒 ( そのこま ) 」で す。誠に荘重な歌ですが、歌詞は次のとおりです。 「 其駒 ( そのこま ) ぞや 我に我に 草 乞 ( こ ) ふ 草は取り飼はん 水は取り草は取り飼はん」 ( 馬が私に草をねだっているぞ。草をやろう、水もやろう ) 荘重な歌の割に文句はあっけない感じで、意味づけもよく分かっていません。ある学者に聞くと、「神様が馬に乗ってお帰りになると言うことではないか」とのことでしたが、私はどうも納得できませんでした。かつて騎馬民族国家説という歴史学の有名な仮説がありました。北方から馬とともに渡ってきた騎馬民族が、日本の先住民を征服して大和朝廷を作ったというものですが、この歌は案外その裏づけではないかと思ったくらいです。もっとも、最近は騎馬民族国家説を否定する学者のほうが多いようです。 笏 ( しゃく ) 拍子 ( ひょうし ) という、天神様のもっているような笏を2つに割ったものを打ち鳴らしてリズムを取りながら歌います。これは古代日本歌謡の通常の型です。 其駒揚拍子(そのこまあげびょうし)、人長の舞(にんじょうのまい) 其駒の歌は繰り返しからリズムが変わって高らかに歌い上げられます。「 其駒揚 ( そのこまあげ ) 拍子 ( ひょうし ) 」です。同時に神様を送る舞が舞われます。「 人長 ( にんじょう ) の舞」です。白い装束に太刀をつけた、人長と呼ばれる人が舞います。手に持っているのは 輪榊 ( わさかき ) といって、榊の枝に輪がぶら下がっているものです。私が若い頃、亡き老先 生にうかがったところでは、この輪は三種の神器の一つ「 八呎 ( やた ) の鏡」を表すという言い伝えだそうです。とすれば、太刀は「 草薙 ( くさなぎ ) の剣」をあらわすのかもしれません。この神事の重要性を物語る話だと思います。こうして、神々をお送りし終わった頃は既に暁に近くなっています。 なお、人長の舞は、本日これを舞われる 多忠輝 ( おおのただあき ) 先生のお家によって、宮中にずっと伝えられてきました。 第三部 (1) 狛鉾(こまぼこ) 東京楽所 「 狛 ( こま ) 」は本来、「 高麗 ( こま ) 」と書き、古代朝鮮半島にあった 高句麗 ( こうくり ) の国のことです。また、「 鉾 ( ほこ ) 」というと武器のようですが、ここでは舟人が舟をあやつる 棹 ( さお ) のことです。みずみずしい緑色の装束に身を包んだ4人の舞人がカラフルな舟棹を持って登場 するこの舞は、高句麗の国から日本への使節一行の上陸をあらわしたものと雅楽書に書かれています。実は、高句麗の国は奈良時代のはるか以前に 渤 ( ぼっ ) 海 ( かい ) 国という国に変わっていますから、渤海の使節と考えたほうが正しいかもしれません。渤海国は日本と大変仲がよく、さかんに交易しました。到着する港は北陸地方が多 かったそうです。 主な交易品は毛皮と薬でした。意外なことに奈良時代は男女を問わず毛皮が人気だったようです。平安時代の初期になっても、「竹取物語」にかぐや姫が「火ねずみの皮ごろも」というものを求婚者にねだる話が出てきます。ずっとのちの「源氏物語」にも毛皮の服が登場しますが、 末摘花 ( すえつむはな ) というやや流行おくれの女性が着用し、光源氏が興ざめすることになっていますから、その頃には毛皮ブームも去っていたので しょう。 曲は古代朝鮮半島の音楽に特徴的な流麗なメロディーで、舞の前に印象的な前奏曲がついています。私はこの舞を見ると、昔にもこのような平和ムードの国際交流があったことがしのばれ、何だかなごやかな気持ちになります。
舞楽 蘭陵王(らんりょうおう) 東京楽所 雅楽の舞は1人舞と4人舞が多く、蘭陵王は1人舞の代表的な曲です。この舞については日本の雅楽書に伝説が記されています。昔、中国の名将軍、 蘭陵王 ( らんりょうおう ) 長恭 ( ちょうきょう ) はあまりに美男子だったので、戦場では威厳を保つため、恐ろしい面をつけて戦いました。その戦いの様子がこの舞だと言うものです。 中国、唐時代の「教坊記」と言う本に、これのもととなったと言われる「 蘭陵 ( らんりょう ) 王入陣曲 ( おうにゅうじんのきょく ) 」という散楽(大勢で演ずるミュージカルのようなもの)が書かれています。それによれば、蘭陵王は高長恭という6世紀頃の実在の人物です。ただし、その筋は、まるで仮面ライダーのような超能力を発揮して戦いに勝つお話だったようです。 唐の玄宗皇帝の頃、特に「蘭陵王入陣曲」が流行し、宮廷でも上演されました。おそらく、それを見た日本の遣唐使一行が持ち帰ったのではないでしょうか。だとすればちょうど、井上 靖 ( やすし ) の小説、「天平の 甍 ( いらか ) 」の時の遣唐使です。その長いミュージカルのうち、王の凱旋の舞なのではないかと私は想像しております。 昨年、NHKの大河ドラマ、「義経」のタイトルにこの舞が使われて、大変有名になりました。本日はそのテレビカットを作成された岩波 孝昌 ( たかあき ) 先生による上演です。 |