ご来場ありがとうございます。洋遊会は今年で143年の歴史がありますが、魚津市での公演は初めてです。お世話していただいた方々が大変熱心なので、私どもも張り切っております。ゆっくりとご鑑賞ください。
第一部 舞楽 納曾利(なそり)
奈良時代に高句麗(こうくり)の国から伝わった舞です。「納曾利」という曲名は意味が分かっていませんが、古代朝鮮語と思われます。青い面に青い毛縁(けべり)の豪華な装束(裲襠(りょうとう)装束と言います)をまとった二人の舞で、雌雄2匹の龍が天上で舞い遊んでいる様子と言われています。平安時代の宮廷では大変人気がありました。舞の途中に腰を落とし蹲(うずくま)る姿勢があることから、「落蹲(らくそん)」という別名もあり、源氏物語や枕草子には落蹲の名で登場します。特に清少納言は、その蹲った姿が大変風情があって好きだと書いております。雅楽にはたくさんの舞がありますが、たいてい一人の舞か四人の舞で、二人の舞はこれを含めて3つしかありません。舞台をいっぱいに使った左右対称の動きがひとつの見どころです。
第二部 楽器紹介、管絃(かんげん)および朗詠(ろうえい)
1.楽器紹介
雅楽に使う楽器をご紹介いたします。雅楽はたくさんの国の音楽からできたものなので、楽器編成も何種類かありますが、ここではそのうち唐楽という、中国渡来の音楽の楽器編成をご紹介します。
3つの管楽器 龍笛(りゅうてき)、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、
2つの絃楽器 琵琶(びわ)、筝(そう)、
3つの打楽器 鉦鼓(しょうこ)、太鼓(たいこ)、鞨鼓(かっこ)から成ります。
2.管絃(かんげん)および朗詠(ろうえい)
舞を伴わない雅楽を管絃と言います。絃楽器が加わることが特徴です。平安時代、舞は特別な儀式や公式行事の場で、専門の楽師を中心に上演されるものでした。これに対して、管絃や歌曲は貴族の日常生活の楽しみとして、親しい仲間うちで演奏されました。そんな雰囲気をかもし出してみたいと思います。
(1)平調音取(ひょうじょうのねとり)
これは実は正式な曲ではなく音合わせです。西洋のオーケストラも開演前に舞台で全員が音合わせしています。雅楽ではいろいろな調子(西洋音楽のハ長調、ニ短調のようなもの)ごとに、音合わせ用の曲があり、その曲を音取と言います。これはそのうち唐楽の平調(西洋音楽のホ長調に近い)の音取で、1分ぐらいの曲です。音取を演奏することによって、音を合わせるとともに次の曲が平調の曲であることを示し、演奏者と聴衆の雰囲気を盛り上げるわけです。
(2)越天楽(えてんらく)
有名な越天楽を演奏します。越殿楽とも書きます。雅楽と言えば、この曲しか知らない人がほとんどだと思います。結婚式などで聴かれることも多いでしょう。明治11年に明治天皇が福岡町へ行幸(ぎょうこう)された時、ご休息所で洋遊会が越天楽を演奏したことが福岡町史に書かれており、我々にとっても記念の曲です。もとは西域(シルクロードに沿った地方)の音楽だったとのことです。
(3)朗詠「嘉辰(かしん)」
朗詠とは、平安時代の詩吟で、雅楽の伴奏がついています。平安朝の貴族は祝宴や風流の遊びのたびに、さかんに漢詩や和歌を朗詠しました。平安中期には人気のある文句を集めた朗詠用の本、「和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)」が編纂されました。現代で言えばカラオケ用の歌詞ブックのようなものです。「嘉辰」はその中でも、一番の人気曲でした。紫式部日記には、藤原道長が酔ってこの曲を何度も朗詠する場面が出てきます。
歌詞は「嘉辰令月歓無極 万歳千秋楽未央(かしんれいげつかんむきょく ばんぜいせんしゅうらくびよう)」というものです。
意味は「星がきれいで月が美しく、私の喜びは限りがない。千年歌っても万年歌っても、楽しみは半分も終わらない」という意味で、お祝いの歌詞です。普通の漢詩は「国破れて山河在り」のように読み下しにされますが、この曲は全く音読みで歌われ、お経と似ています。漢詩の読み方は、このほうが古い形なのかもしれません。
(4)抜頭(ばとう)
この曲は林邑楽(りんゆうがく)と言って奈良時代にベトナムから伝わった曲だとされています。長い髪の毛の面を使う、大変面白い舞があるのですが、本日は管絃で演奏します。只拍子(ただびょうし)という割に軽快なリズムなので、昔から管絃の遊びでも人気がありました。抜頭というのは意味がよく分かっていません。いろいろな説があり、古代インドの「リグーヴェーダ」という神話文学に登場するパドゥという神様のことだという説もあります。
第三部
平安朝の宮廷には右方と左方の2つの楽所があり、競い合っていました。曲や舞も右方と左方でレパートリーが違いました。最初にご覧に入れた「納曾利(なそり)」は右方の樂所の代表的なレパートリーですが、これからご覧に入れるのは左方の樂所のレパートリーで左舞(さまい)と言います。使用楽器やリズムに違いがあります。
1 舞楽 五常樂急(ごしょうらくのきゅう)
蛮絵(ばんえ)装束という古雅な装束の四人の舞です。この装束は平安朝の宮廷の正式な服装でした。本来、序、破、急の3つの曲から成る長い曲で、本日は、調子という伴奏とともに入場する場面と、急の曲による舞の2つの部分のみを上演します。儀式的な舞で、儒教の5つの徳、すなわち仁義礼知信をあらわしたものという説があります。それでは、どの部分がどの徳にあたるのかと聞かれると答えようがありませんが、ともかく雅楽の舞の基本的な形を、次々と流れるように見せるところが特徴です。五常楽は、古くから雅楽の基本曲とされ、雅楽入門者は、まず最初にこの曲、この舞を習います。ところが、基本というのは実は一番難しいものです。この舞を王朝風に優雅に舞うことは雅楽人の永遠のテーマだと言えるでしょう。
2 舞楽 蘭陵王(らんりょうおう)
面をつけた一人による舞です。雅楽の中には走舞(はしりまい)と呼ばれる舞がいくつかあり、蘭陵王は走舞の代表的なものです。打楽器のリズム中心の入場曲、全体の合奏とともに舞う当曲、それから退出曲の3つの部分より成ります。この舞については古い楽書に故事が書かれています。6世紀頃、中国の北斉(ほくせい)という国の名将、蘭陵王(長恭らんりょうおうちょうきょう)はあまりに端正な美男子だったので、戦場では勇猛さを強調するためにグロテスクな面をつけていました。この舞は面をつけた蘭陵王の奮戦の場面をあらわしたものと書かれています。蘭陵王は北斉の王族、高長恭という実在の人物で軍を大勝利に導いたことも史実です。しかし、別の楽書ではこの舞がベトナムから伝わったと書かれており、実は古代南アジアの龍王の舞なのではないかという説もあります。堂々とした舞いぶりと絢爛豪華な装束から、昔から人気の高い舞でした。平安文学に一番よく登場するのもこの舞です。厳島(いつくしま)神社の水上舞台の写真などで、ご覧になった方も多いと思います。
洋遊会の紹介
江戸時代の後期から、福岡町では神社や寺院の式楽から始まって雅楽が親しまれたと言われています。現在の洋遊会の前身が結成されたのは、文久元年(1861)のことで、朝順恵ほかの雅楽愛好家たちが、「暢日連(ちょうにちれん)」という愛好会を結成しました。
明治11年(1878)、明治天皇は岩倉具視、大隈重信らを伴い北陸地方をご巡幸され、福岡町の島田七郎平邸(現在福岡町施設、島田邸矢水宛)でご休息を取られました。その際に暢日連は五常楽(ごしょうらく)、越天楽を演奏し、ご一行を大変喜ばせました。その時使用を許された菊のご紋章入りの幟(のぼり)が現在も洋遊会に保存されています。これを機会に町で雅楽が大変盛んになり、宮内省との交流が生まれました。
大正8年(1919)、当時の指導者川島静哉が宮内省楽師、東儀俊義の意見により会名を「洋遊会」と改めました。さらに、舞楽面、装束、楽器、古文書、楽譜等を収集し、数々の舞を習得して全国的にも珍しい、舞楽を完全に行える民間雅楽団体に成長させました。
その後、京都の社寺に招かれ舞楽を行うなど、全国的な活躍を続けました。戦後は一時的に会員の減少などに直面しましたが、昭和45年(1970)に福岡町の無形文化財に指定された結果、再び町民の間に雅楽を支援する気運が高まり、現在も盛んな活動を続けています。
平成12年(2000)の英国ヨークシャー公演は大好評を博し、BBCテレビで絶賛されました。
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