切れば血の出る雅楽


−豊英秋(ぶんのひであき)先生リサイタルを聴いて−
 平成17年2月12日、東京、紀尾井町ホールで豊英秋(ぶんのひであき)先生のリサイタルを聴いた(正確には、舞もあったから「拝見した」と言った方が良いかもしれない)。富山から、このためはるばる上京したわけだが、その苦労に、はるかにお釣りが来るほど素晴らしいリサイタルだった。最も感心したのは、豊先生が他の宮内庁の先生方と一管ずつ、3人だけで演奏された「盤渉(ばんしき)調調子」および「蘇香合(そこう)、序一帖」だ。豊先生は持ち管の笙を吹かれた。この演奏は奏者の思い入れがひしひしと伝わってくる名演だった。さながら、3人の奏者が楽器で対話をし、この大曲に対するそれぞれの思いをぶっつけあっている感じであった。

 雅楽の演奏の中にも「思い」というものがある。雅楽になじみの無い人は、千年以上前の人が作ったメロディーを、古い作法にのっとって繰り返しているだけだと考えるかもしれない。しかし、音楽の演奏とは、それがどんな種類の音楽であれ、機械的な再現作業ということはない。ベートーベンを、ジャズを、演歌を歌う時と同じように雅楽奏者も自分の思いを十分に雅楽で表現しているのである。

 実は、舞台上の3先生のお一人は私の篳篥の先生だ。その方から10年ほど前にこう言われたことがある。

 「上野さん、貴方にはずいぶん長い間篳篥をお教えしましたね。もうほとんど教えることがなくなりました。と言っても卒業というわけじゃない、その反対です。私はその長い間、貴方には進歩が無かったような気がするんです。はっきり言って、貴方の篳篥はつまらない。音程は正確ですよ。リズムのとり方も上手になりました。だけど、貴方の篳篥からは貴方の思いが何も伝わってきません。だから、私が聴いても共感がありません。そもそも貴方はどんなつもりで雅楽をやっていらっしゃるのでしょう。雅楽は決して昔の人が作った、干からびた骨董品ではないのですよ。切れば血の出るのが雅楽です。今生きる我々も、たとえばこの私も、毎回、どんな短い一節にも私の思いをぶっつけて吹いているのです。素人のカラオケでさえ、音程は多少あやしくても、自分の思いのありたけをぶっつけて歌う人がいますよね。それこそが音楽です。雅楽もおんなじです。今のままでは貴方の篳篥は、音楽と言えませんよ」。

 こう書いてみるとかなりきつい評言で、これを言われてよく私が雅楽をやめなかったものだと思う。しかし、その時私は、先生の言うことが百パーセント正しいと感じた。実際、先生の吹く篳篥には先生の言葉を納得させるだけの迫力があった。一音吹いただけでも私や他の人を感動させたものだ。私の篳篥には、我ながらそんな力は全く無い。その理由を私は、「技術がはるかに違うからだ」で済ませていたが、もっと大きな理由があったのだと気がついた。技術ももちろんだが、それ以前にまず、持っている「思い」の量が全く違っていたのだ。プロとアマ、芸術家と趣味人の最大の違いはこの「思い」なのかもしれない。

 さらに、雅楽というものについても、私には考え違いがあった。古雅なもの、歴史的に価値のあるもの、学術研究の対象になる立派なものという理解が勝ちすぎて、雅楽の底を脈々と流れている生命力に本当は気づいていなかったのだ。自分ではベテラン演奏者のような顔をしていたが、実は、「論語読みの論語知らず」だったのである。先生のきつい言葉を聞いたあとの私に、果たして進歩があったかどうかはわからない。ただ、雅楽を見る眼、聴く耳が全く違ってしまったことは確かである。

 蘇香合(そこう)を聴き終ったあと、あの時のことがしみじみと思い出された。場内のアンケート用紙にはこう書いた。「切れば血の出る雅楽、いや血がドクドクとあふれ出るような雅楽でした」。このリサイタルは雅楽ファンだけでなく、世界中の音楽ファンに聴いてもらいたかった。

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