高岡市文化情報誌「きらめき」 2006 年春季号掲載

高岡市の洋遊会


 福岡町の雅楽団体、洋遊会は昨年の合併で、「高岡市の洋遊会」となった。我々にとっては、ある意味で大変有り難い。

 と言うのは、最近の洋遊会は全国の雅楽関係者に結構名前を知られている。民間には珍しい本格的な雅楽団体という評価だからうれしいことだ。ところが、かなりの人々が我々を九州の団体だと勘違いしている。私が東京の雅楽公演に顔を出すと、今でも、「はるばる九州からようこそ」と言う人がいる。そもそも政令指定都市の福岡市と富山県福岡町では知名度が違うのは当たり前で、その上、九州の福岡市も、昔の大宰府に近いゆえか、雅楽の盛んなところだ。勘違いされるのも無理はなかった。

 今後、「高岡市の洋遊会」ならば誤解は生じない。全国雅楽協議会の機関紙、「雅楽だより」にさっそく「高岡の洋遊会となりました」と挨拶文を掲載した。これからは全国の雅楽ファンに高岡の名をしっかり覚えてもらおうと思う。

万葉の音楽


 さて、高岡市と言えば万葉である。万葉集は大伴家持の歌が一番多く、しかもその半分が高岡で越中守時代に作られたものだ。毎年、当地で万葉朗唱の会が開催されるのもむべなるかなと思う。洋遊会もせっかく高岡市の団体になったのだから、万葉をキーワードとした雅楽活動ができないものか考えてみた。

 しかし、これが意外に難問なのだ。実は、万葉時代の雅楽(音楽)とは、その実態が今ひとつはっきりしない。現在、我々が演奏している雅楽とはかなり違うものらしい。

 現在の雅楽は平安朝の宮中で完成したスタイルである。貴族たちが楽しむために和風に改変、編曲されたサロン音楽だ。平安時代の名著、源氏物語には光源氏たちが日常の楽しみとして、今の雅楽とほとんど同じ楽器、同じ曲を演奏している様子が描かれている。

 それに対して万葉時代を代表する正倉院の楽器は、大多数が今の雅楽では使われないものだ。 駱駝 (らくだ) の絵の 螺鈿 (らでん )細工で有名な五絃の琵琶がある。これは演奏法も楽譜も伝わっていない。また、 方響 (ほうきょう) という多彩な音を出す打楽器がある。高岡駅のホームで太 田豊さんの音楽が流されているお 鈴 (りん)によく似ている。これも今の雅楽には無い。そんなバラエティーに富んだ楽器が演奏された万葉の音楽は、雑然とした反面、今よりエネルギーと迫力にあふれたものだったろう。

必死で外国の文物を取り入れた時代


 万葉時代の人々は外国から、実に多様な文化を取り入れた。まるで何かに取り付かれていたようにさえ見える。その頃の文献に記録されている外来の音楽、舞の名を挙げてみる。

 唐楽、 渤海楽 ( ぼっかいがく ) (中国)。 伎楽 (ぎがく ) 、 高麗 ( こま ) 楽、 新羅 ( しらぎ ) 楽、 百済 ( くだら ) 楽(朝鮮半島)。天竺楽(インド)。 林邑楽 ( りんゆうがく ) 、 虎 羅 楽 ( とらがく ) 、 婆 理 舞 ( ば りのまい ) (東南アジア)。

 ほとんど、アジアを手当たり次第である。

 「雅楽」と言う言葉のはじまりは、まさに万葉の時代の西暦 701 年、朝廷に開設された「雅楽寮」と言う官庁名だ(ただし、当時は「うたまいのつかさ」と読んだらしい)。西暦 701 年は、受験で日本史を選択した人なら記憶しているかもしれない。わが国初の律令、「大宝律令」が制定された年だ。「大宝律令」には音楽輸入の官庁までが定められていた。明治の日本以上に舶来万能の時代だったのだ。

 この舶来万能思想、きっかけは敗戦のためだったのではないかと説明する学者もいる。西暦 663年、日本水軍(その頃は倭国か)は百済の国と同盟を結び、現在韓国にある白村江で唐・新羅連合軍と対峙した。万葉集の巻一、 額田王 (ぬかたのおおきみ)の有名な歌は、その遠征を送る瀬戸内海で作られたものだと言われる。

「 熱田津 (にぎたづ) に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今はこぎ出でな」
(熱田津(にぎたづ) から船出するため月待ちをしていたら、どうやら満潮になってきた 。さあ、出発をしよう)

 結果は惨敗だった。敗北した倭国の大軍の血によって、白村江河口の海までが真っ赤になったと史書は伝える。同盟の百済は滅亡に追い込まれ、倭国も存亡の危機だった。彼我の力の差をいやと言うほど思い知らされたのだろう。律令はじめ外国の制度、文物輸入に拍車がかかったのはそれからだ。

 現在の雅楽にも、その万葉時代の雰囲気を感じさせる演目はいくつか残っている。「戦勝祈願の舞」、「五穀豊穣を祈る曲」、「雨乞いの舞」などの 謂 (いわ)れを持つものがそうだ。当時の人々は、音楽や舞に世の中を変えるパワーがあると本気で信じていた。わが洋遊会が得意な「 陪臚 (ばいろ)」という剣舞は天竺(インド)から輸入された戦勝祈願の舞だ。雅楽としては異色の勇壮な舞で、東大寺大仏の開眼供養にさっそく奉納された。きっと、万葉のお役人は、現代で言うと軍事大国からミサイルでも輸入する感覚で、この舞を取り入れたのに違いない。風流で音楽を習い 覚えたのではなく、お国のために必死だったのである。

 万葉の音楽を追求すれば、雅楽だけでなく今まで気がつかなかった歴史の一面が見えてくるかもしれない。高岡市が本拠になったのを機会に、その活動を洋遊会に加えたいものだ。

高岡市の文化とは?


もう一筆、蛇足を書いておきたい。

 高岡市と合併して気がついたのは、万葉とか雅楽に多少戸惑いを覚える人がいることだ。特に旧市街地に住む人たちにそれが多い。「高岡と言えば前田家の城、御車山、銅器の町ではないか。万葉や雅楽は有り難い文化かもしれないが、 生粋 (きっすい)の高岡人にはピンと来ない」と言う声を聞いた。あまり持ち駒が多くなるとかえって町の特色が薄れるという心配があるようだ。

 そんな人たちに次の昔話を聞かせたい。証言者は私の母親。高岡市金屋町で藩政時代からの銅器商に生まれ、福岡町へ嫁して本年 90 歳である。

「私の小さい頃、金屋町は高岡扱いされていなかったものだ。山町の人たちから“川原(かわら)、金屋(かなや)”とひとまとめに呼ばれ、本当の高岡とは思われていなかった」。

 確かに、当時の地図を見ると金屋町は市のはずれにある。隣接の横田区域は大半が「射水郡横田村」だ。かつての御印地(ごいんち)、金屋も昭和の始め頃までは高岡扱いされないこともあったのかもしれない。ところが、昨年の高岡 、福岡合併式典で、我々の舞楽とともに旧高岡市の代表として上演された芸能は、懐かしい金屋町の「やがえふ」であった。 今日(こんにち)、金屋町を高岡でないという人など一人もいないのだろう。町の発展により、高岡人の仲間意識が大きくなったと言うことだ。先人の努力の賜物である。

 私の頭の中にある高岡人のイメージは経済についても技術、文化についても、万葉人のように多くのものを貪欲に取り入れ、自分を大きくしていく人たちだ。しかも、楽しみながらやる人たちだ。文化の財産が豊富になれば、町の新たな特色が生まれるだろう。それを生み出すエネルギーが、現代の高岡人にはあるはずだ。新しい財産、「万葉から現代までに通じる雅楽」を、町の人たちと一緒に築いていきたいと思う。

洋遊会略歴


文久元年( 1861 )  創立(当時の名称、 暢 日連(ちょうにちれん) )
明治11年( 1878 )  明治天皇行幸時に演奏 菊のご紋章入り 幟 ( のぼり ) を賜る
大正 8年( 1919 )  宮内庁楽師、 東儀 ( とうしぎ ) 俊義 ( としまさ )の命名により、
           洋遊会と改称 宮内省との交流さかんとなる。
           (舞楽面、装束、楽器、古文書、楽譜の収集)
昭和10年( 1935 )  富山県庁落成式で舞楽上演
昭和45年( 1970 )  福岡町無形文化財に指定される。
平成12年( 2000 )  英国友好都市公演(ベバリー、ハル、ヨーク) BBC 放送で紹介、
           賛辞を受ける。

 近年ほぼ毎年の定期公演の他、金沢音楽堂、新川文化ホールなどで特別公演を行い、また、布橋灌頂会などの特色ある行事に参加しています。現在会員は約 50名、旧福岡町だけではなく、旧高岡市をはじめとする富山県、石川県一円から、旧福岡町Uホールへ週2回の練習に通っています。入会には、熱心ささえあれば年齢、経験を問いません。老若男女どなたでも結構。興味のある方、積極的に門戸をたたいてください。


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