大名家とサラリーマンの雅楽


−洋遊会金沢公演−
 北國新聞文化センターで今年から雅楽を教えている。受講生の大半は、まだもの珍しげな表情だ。 金沢は雅楽ではなく、謡曲が全国に有名だ。謡曲、能は伝統的に武家の芸術で、織田信長も秀吉も能を愛した。前田家は利家公以来の大ファンだったから、金沢は謡曲のメッカになった。反面、貴族の芸能である雅楽にはあまり眼が行かなかったのだろう。

 さて、その前田家の現ご当主、前田利祐(としやす)さんは意外なことに雅楽がお好きである。始めてから日は浅いとのことだが、琵琶の奏者だ。昨年暮、わが洋遊会の県立音楽堂公演に賛助出演された。練習の時に、「いつも、お家の名器の琵琶をご使用ですか」とお尋ねしたところ、「いいえ、実は人のを拝借して弾いております。家伝来の楽器は、みな財団法人前田育徳会に入っていますので」とのこと。お話によると、歴代の藩主はやはり能ほど雅楽に力を入れなかったらしい。だが、演奏が始まると、前田さんの琵琶にはいかにも武家らしい風格が感じられた。何よりも芸道に対する真摯な尊敬の念が伝わってくる。きっと歴代藩主の能の方もただの遊びではなく、大事な精神修養のひとつだったのに違いない。

 藩主の後裔(こうえい)と、サラリーマンや主婦の会員が心を合わせた雅楽の舞台は、緊張感の中に暖かさがあった。こんな味のある芸能のできる風土こそ、加賀藩のかけがえのない遺産ではないだろうか。

(平成16年3月16日北國新聞夕刊掲載)

あとがき



 金沢市本社の北國新聞へは、始めて記事を書きました。570字のうちに、文化センター教室の宣伝と、洋遊会公演のことと、前田さんのことを入れて欲しいというのだからずいぶん盛りだくさんで、落語家の三題話のようなご注文だと思いました。何とかまとめられたかなと感じていますがどうでしょうか。

 「舞台」というコラムへ載せたもので、新聞社のつけた表題は「前田家の雅楽」となっていました。ホームページ用の表題は、私がつけたものです。実は、前田利祐さんご自身も大手船会社の要職を歴任された国際ビジネスマンでいらっしゃいます。こんな表題をつけると、「私も元サラリーマンなんですが」と言われそうな気もします。

 利家公が本当に能の大ファンだったのかどうか、実はよく知りません。しかし、私の愛読書のひとつ、「甲子(かっし)夜話」という本に、豊臣秀吉が禁中で後陽成天皇に能をご覧に入れた記録があり、その時前田利家は、「江口」、「源氏供養」など数番の能のシテを務めています。秀吉や家康もシテを務めており、秀吉、利家、家康の三人で「耳ひき」という狂言を上演したことも書かれています。稀代の見ものだったのではないでしょうか。ある歴史家の話では、三人のうち一番「芸歴?」が古いのは、意外にも若い頃文化人大名、今川家の人質だった家康なのだそうです。

 この「甲子夜話」は、文化文政時代の九州の大名、松浦静山(まつらせいざん)の随筆ですが、加賀藩へ出仕していた鼓打ちから聞いた話というのが載っています。静山が、「前田斉広(なりなが)侯(加賀藩十二代藩主)がこのほど金沢へ退隠されたが、新築された隠宅というのは誠に広大、壮麗な造りだという噂だ。本当にそうか」と質問したのに対して、「まったくそのとおりで、将軍家のお住まいより立派かと思われます。なにしろ建物の中に能舞台が三つあります」との返事。確かに斉広公が、「竹沢御殿」という大きな御殿を作られたのは史実で、そのお庭が現在の兼六園だそうです。惜しいことに建物は現存しませんが、その遺構や古材が、一部成巽(せいそん)閣に使われているとの話です。それにしても、横浜の三渓園や、東京青山の根津美術館のように、金持ちのお屋敷で、お茶室がいくつもあるというのは聞いたことがありますが、能舞台が三つ付いている隠居所というのは、さすがに加賀のお殿様ならではの話だという気がします。もっとも、報告したのが鼓打ちだけに、商売に関係のある能舞台ばかりが印象に残ったのかもしれません。

 話は雅楽に戻って、前田さんのように堂々と弾かれると、琵琶はいかにも風格のある楽器です。「琵琶は王者の弾く楽器」と言った人がいましたが、よく言いあらわした言葉だと思います。

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