小学生への手紙


−「名人」は、自分でそうは思わない−
 もうすぐ桜が咲きます。みなさんは新しい学年ですね。まいにち、楽しさいっぱいだと思います。

 去年、私たちが雅楽(ががく)をお見せしてから、もうずいぶんたちました。雅楽のお礼に、みなさんからたくさんのお手紙をいただきました。ありがとうございます。すぐお礼状を出そうと思ったのですが、おそくなってしまいました。たいへん失礼しました。

 ところで、みなさんの私たちあての手紙には、「雅楽の名人さんへ」と書いてありました。ほめてもらってうれしかったけれど、あるお話を思い出してよろこんでばかりいられないなと気がつきました。というのは、こんなお話です。

 昭和のはじめ、東京に尾上菊五郎(おのえきくごろう)という俳優がいました。今も尾上菊五郎という俳優がいますが、そのおじいさんです。日本舞踊、つまりおどりの日本一の名人と言われていました。

 そのころ、日本でも映画がたくさん作られるようになりました。そこで、日本一の名人、尾上菊五郎のおどりを映画に残しておこうということになりました。菊五郎のいちばん得意な「鏡獅子(かがみじし)」というおどりを映画に撮影し、本人の菊五郎をはじめ、お弟子さんや映画の会社の人たちで映写会をしました。そのとき見たお弟子さんの話によると、映画のおどりはすばらしいできばえで、見た人はみな感心していたそうです。そのお弟子さんも、「やっぱり、菊五郎先生は名人だ。この完ぺきなおどりを未来の人たちにも映画で見てもらえる。映画が発明されてよかった」と思ったとのことです。

 ところが次の日、そのお弟子さんが菊五郎の家へ行くと、菊五郎は朝から一生けんめい「鏡獅子」を練習していました。「先生、ずいぶん熱心におけいこされていますね」と話しかけると菊五郎は、「きのう、自分の映画を見て冷や汗が出たよ。世間の人は私を名人と言っているそうだが、あれが名人のおどりかい。とんでもない、まったくだめだ。なくなった私の先生とはくらべものにならない。もうちょっと上手にならないと」と言ってまた練習を続けました。

 長い練習がやっと終わってから、菊五郎はしみじみとこう話しました。「あの映画が未来に残ったらはずかしいから、本当はフィルムを焼きすててしまってほしいと思っているんだ。でも、考えてみれば、映画というものがなかったら、自分がこんなに下手なこともわからなかったわけだ。映画にお礼を言わないといけないのかもしれないね」。

 聞いたお弟子さんは、「先生は、あんなにすばらしいおどりができても満足しない。名人ほど自分を名人だと思わないものなのだ」と感心したそうです。この「鏡獅子」の映画は今でも残っています。みなさんも大きくなったら、ごらんになることがあるかもしれません。

 自分が努力して成功したことに自信を持つのはよいことです。しかし、「自分より上手なものはいない」とか、「自分のやることは完全で、もうこれ以上は無い」などと考えたら必ずその人の進歩はとまり、次に失敗します。雅楽でもおどりでも何の道も同じことではないでしょうか。

私は名人なんかではありません。これからも仕事も雅楽も努力を続けます。みなさんも新しい学年でがんばってください。

でも、実は名人と呼ばれて、ちょっといい気分になりました。かさねてどうもありがとうございます。

3月17日

福岡小学校のみなさまへ 

洋遊会  上野 慶夫

あとがき



 洋遊会が福岡小学校の授業で舞楽、納曾利(なそり)をみせ、越天楽をリコーダーで指導したお礼に児童たちから手紙をたくさん貰いました。その宛名に「雅楽の名人さんたちへ」とあったところからこれを書いたものです。まさか、菊五郎と我々を比べようとしたわけではありません。この手紙で尾上菊五郎とあるのは、もちろん踊りの神様と言われる六代目の菊五郎のことです。この話はその弟子、二代目の尾上松緑がどこかへ書いていたもので、正しくは菊五郎が七代目松本幸四郎と一緒に撮った「茨木」という踊りの話だったかもしれません。「茨木」の渡辺綱は幸四郎の一番のあたり役で、映画で見てもそちらの方が茨木童子役の自分より上だと菊五郎は感じたとのことです。しかし、今残っている菊五郎の踊りの映画は「鏡獅子」だけだし(その他に若い頃撮った「紅葉狩」の山神、やはり幸四郎と撮った「勧進帳」の義経がありますが、いずれも主役ではありません)、その「鏡獅子」についても菊五郎が、「フィルムを焼き捨てて欲しい」と言ったのは事実らしいので、こんな話にまとめました。大要は伝わっているかと思います。

 楽器と違って、舞や踊りは自分のやっていることを自分で見るわけにいきません。だからこそ、小さい時から上手な人に指導を受けて身体に覚え込ませるわけですが、はじめて映像で自分の踊りを見た菊五郎ら昔の俳優は、どのような感慨を抱いたでしょうか。

 菊五郎が自分の先生と言っているのは、明治の「団菊左」で有名な、九代目の市川団十郎のことです。菊五郎の父は団十郎のライバル、五代目の尾上菊五郎ですが、五代目は、「踊りについては、間違いなく団十郎の方が私よりうまいのだから」ということで、息子を団十郎の門下に入れたのだそうです。そのため六代目は終生団十郎を尊敬していたそうですが、五代目菊五郎の度量の広さも偉いものだという気がします。そう言えば、最初の話を伝えた二代目の尾上松緑は、六代目菊五郎のライバル、七代目松本幸四郎の三男ですが、同じ理由で親から菊五郎に預けられ、踊りを覚えた人です。日本の古典芸能界は、少なくとも本当の名人たちの間では決して閉鎖的ではありません。雅楽の場合も同じだと思います。

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