「落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる」
枕草子の「舞は」の段にあるこの一節は、雅楽関係者をたいへんに悩ませる記述である。と言うのは、今日残る落蹲という舞は一人で舞うからだ。いや、「納曽利」という二人の舞を一人だけで舞う時に、名を「落蹲」と呼ぶのだという常識がある。
右方の舞で代表的な走舞、納曾利は通常面をつけた二人舞だ。しかし、一人で舞う方法もある。一人で舞う場合も振付はほとんど違いがない。舞人の位置と角度が多少変わるだけだから、慣れた人なら割に簡単に一人舞ができる。むしろ民間雅楽団体は一人でやることの方が多いだろう。その方が面と装束と舞人が一人前で済み、経済的だ。
一人で舞う場合、この舞の名が変わって「落蹲」という名になる。舞の途中で腰を落とし、蹲踞するところから付いた名と言われる。
我々は宮内庁の先生から、「二人で舞う場合は納曾利、一人で舞えば落蹲」と教わってきた。ところが、その先生が練習の最中、ふとおっしゃった。「我々は一人舞の方を落蹲と言っているけど、関西では逆で、二人舞の方が落蹲になって一人舞を納曾利と言うようですね」。関西とは、由緒ある春日の若宮の舞楽もことだ。考えてみれば同じ振付なのだから、二人舞の方もひざまずく部分がある。拙著、「雅楽1300年のクラシック」、口絵にある二人舞の納曽利の写真をご覧願いたい。破から急に移る部分でひざまずいた写真がある。枕草子に言う、「膝踏みて」もおそらくこの部分のことだろう(部分については、異説もあるようだ)。二人舞を落蹲と呼んでもちっともおかしくない。その上、冒頭の枕草子の記事である。どうもこの問題はこんがらかっているらしい。
実は先生の落蹲一人舞説は、単なる言い伝えではなくちゃんとした文献的根拠がある。古典の三大雅楽書と言われる、「教訓抄」(鎌倉時代)、「体源抄」(室町時代)、「楽家録」(江戸時代)のうち、教訓抄と楽家録の2つまでが、納曽利二人舞、落蹲一人舞説である。残る体源抄には特に記載がないようだ(いずれも洋遊会書写による宮内省本)。体源抄の著者、豊原統秋(とよわらのむねあき)は笙で左方の人だから、右方の納曽利、落蹲については特に家伝がなかったのかも知れない。
ちなみに、楽家録の文章をあげてみる。原文は和風漢文である。
「納蘇利(古くはこの漢字を書くことが多い)、一名を落蹲又は双龍舞、私に曰く二人舞を納蘇利と言ひ、一人舞を落蹲と言ふ也」
きわめて明確だ。時代により違いはあっただろうが、先生が、素人の清少納言よりいにしえの雅楽名人たちの書き残したものを信じるのは無理もない。
音楽之友社刊行の小野雅楽会編雅楽事典、納曽利の項も落蹲一人舞説だ。“なお、この舞を一人で舞う時を「落蹲」と称している。なお枕草子には「落蹲は二人して膝踏みて舞ひたる」とあるが、現行は一人舞である”と記してある。
これだと昔は落蹲が二人舞だった時代もあるのだろうという書き方で、何だかうまく逃げたなという気がしないでもない。だが、この筆者は落蹲一人舞説に相当強い自信を持っているのだと思う。この文章を書いたのは、私が篳篥の手ほどきを受けた東儀和(まさ)太郎先生に違いない。雅楽事典の代表執筆者は、左舞の名人、東儀信太郎先生だが、小野雅楽会の稽古場で、信太郎と和太郎の両大先生が、雅楽事典の執筆について打ち合わせされているのを、他ならぬこの私が何度も目撃しているのだ。余談だが、既に故人となられたこの両先生は、たまに熱心な論争をされることがあった。中には面白いものもあり、いくつか私の記憶にとどめている。東儀和太郎先生なら、古今の文献等をまんべんなく調べた挙句、結論は各方面のカドが立たないように、サラリと書いてしまうことを、いかにもやりそうだ。私の眼からみると事典の記述は、「落蹲が二人舞というのは何かのまちがいではないか」と言っているように見えるのである。もっとも、同じ事典の「落蹲」の項では、落蹲二人舞説が「窪家芦声抄(くぼけろせいしょう)」という本にあり、奈良独特の言い方だとも書いてある。
さて、しかとした根拠もなく恩師の説にさからうようで申し訳ないが、実は私は別の想像をしている。非常に大胆な説なので、和太郎先生が聞いたら、さぞ大笑いされるだろう。もっとも、かつてはお茶飲みタイムに冗談ともまじめともつかない話で笑わせあいながら、よく稽古をしたものだ。先生もどうせ相手は素人という安心感があったと見える。
私の想像のポイントは2つ。まず、
1.落蹲は納曽利の単なる異名で、特に平安時代は一人舞だろうが二人舞だろうが、両方の呼び方があったのではないかということ
さらに、これはもっと大胆だが、
2.この舞は現在二人舞が本式で、一人舞は略式のように言われているが、実は元来一人舞で、二人舞は改作ではないかということ、これに伴い、振付も二人舞風に改作されたと思われること
まず、1の呼び名の話、枕草子にも源氏物語にも落蹲という名は出てくるが、納曽利は出てこない。しかも、枕草子には明らかに二人の舞とあるけど、源氏物語(3箇所出てくる)に出てくる落蹲はいずれも一人舞だったのではないかと思われる。というのは、舞人の名前が一人しか書いてないのである(もちろん、物語に不要だから書かなかっただけということも考えられるが)。つまり、一人舞も二人舞も落蹲と呼んでいたわけで、この時代に納曽利という名はあまり使われなかったのではないだろうか。
納曽利という名前が嫌われていたということも考えられる。同じ源氏物語の紅葉賀の巻に「ほそろくせりといふ物は名はにくけれど、おもしろう吹きすまし給へるに」(ホソロクセリと言う曲は、名は奇妙で良くないが曲は味わい深い)という記述がある。「ナソリ」とか「ホソロクセリ」は元来朝鮮半島のことばだったと思われるが、どうやら漢詩文のはやった平安中期、このような意味のわからない曲名は敬遠されたのではないだろうか。「ホソロクセリ」の方はちょうど源氏物語が書かれた頃、年号をとって、「長保楽(ちょうぼうらく)」と改名されてしまっている。「ナソリ」の方もこの頃は、一人舞だろうが二人舞だろうが、落蹲と呼ぶのが一般的だったのではないだろうか。曲名が時代によって変わったことは他にも例がある。
平安末期の楽人、大神基政(おおがのもとまさ)の書いた楽書、「龍鳴抄」には「納蘇利、らくそんといふべし」という文章がある。つまり、納曽利と書いて「らくそん」と読むのだと言うのだ。別の本にも同じ記述がある。落蹲、納曽利の名は昔、舞の人数に関係なく併用して使われていたのひとつの証拠と考えられそうだ。
さて、2.の納曽利(落蹲)二人舞改作説に移ろう。舞楽には、番舞(つがひまい)と言って左方の楽団と右方の楽団が、ペアのようにして上演した舞がある。右方、納曽利(落蹲)の左方の番舞は陵王、有名な蘭陵王である。私は納曽利(落蹲)が、この蘭陵王の対抗上二人舞に改作されたのではないかと思うのだ。
これは源氏物語でのこの舞が、みな一人舞だった推定されることから思いついた説だ。他の古典にも一人舞の納曽利(落蹲)が出てくる。蜻蛉(かげろう)日記で、作者の子息、藤原道綱の賭弓(のりゆみ)の舞楽のシーンである。「雅楽1300年のクラシック」にも登場させたシーンだ。実は道綱の舞が納曽利だったとは、原文には書かれてない。日記には舞の名が記載されてないのだ。それでも納曾利と推定されるわけは、宮中の賭弓の際に演じられるのは右方が納曽利、左方が蘭陵王に決まっていたからだ。曲名を記載しなかったのは、書くだけ野暮だということらしい。蜻蛉日記には、この時の舞人の名が道綱しか書かれていない。敵方の蘭陵王の舞人まで名が書いてあるのに納曾利は道綱一人だけなのである。この納曽利(落蹲)もやはり一人舞だったのに違いない。平安中期まではこの舞は一人舞の方が一般的だったのではないだろうか。
そもそも、雅楽、舞楽の二人舞と言うのは非常に少ない。右方の舞ではこの納曽利だけだし、左方では安摩(あま)と青海波の2つだけである(左方の蘇莫者(そまくしゃ)は舞人二人だが、一人舞と言うべきだろう。理由はこの舞を一見すればわかる)。二人舞というのは舞楽の中ではむしろ変則型と言っても良いのではないだろうか。
私は納曽利が、番舞の陵王とのコントラストを際立たせるために二人舞に改作されたのではないかと考えている。一人舞で陵王と納曽利を続けて演じると、どうしても納曽利は渋く、地味に映る。そこが右方の持ち味だと言ってしまえばそれまでだけど、賭弓とか競馬(くらべうま)とかの華やかなイベントで、陵王の相手方として登場させる舞である。右方の楽人も負けじと華やかな演出を考えたはずだ。右方でこの曲のみが、最初からテンポの良い揚拍子(あげひょうし)であったり、陵王と同じように乱声(らんじょう)を演奏したりするのは、長年にわたり、陵王を意識しつつできあがった演出なのではないだろうか。その極め付けが、一人舞から二人舞への改作だったと言うのが私の想像である。現行の二人舞のシンメトリックな面白さは、蘭陵王の華やかで勇壮な舞に勝るとも劣らない。
教訓抄、続教訓抄などの本には、納曽利は二人舞の場合、面や装束の色まで金を交えて一人舞の時より派手にするとある。昔の演出だが、この話などは少しばかり私の勝手な想像を補強するものだ。
私は先人のこの知恵にかんがみ、洋遊会で陵王と納曽利の両方を上演する場合、できるだけ、納曽利は二人舞でやりたいと思っている。しかも、一方が正式な舞ならもうひとつは童舞(わらわまい)にするなど、コントラストの妙を出すのが面白い。そうすることが、舞楽の本来の美意識に近いというのが最近の私の考えだ。
最後に納曽利(落蹲)のもうひとつの異名である「双龍舞(そうりゅうのまい)」についても、私独自の想像がある。これも陵王を意識した名で、二人舞に改作された時につけられたものはないかと思うのだ。先ほどの東儀和太郎先生からこんな話を聞いたことがある。陵王の曲名について、漢字で「蘭陵王」と書こうが、「陵王」と書こうが、先生のお家では単に、「りょう」と読んでいたというのである。確かに雅楽事典にもその読み方はあるようだ。「りょう」というのはあるいは「龍」ではないだろうか。龍の字の本来の読みは「りょう」である。坂本龍馬は「さかもとりょうま」と読むのが正しい。
陵王は怪奇な面をつけた将軍、蘭陵王長恭の伝説がある一方、林邑(りんゆう)八楽の一つに位置づけられることから、もとは南アジアの龍王の舞だったではないかと言う説も根強い。私の見るところでは、むしろ龍王説の方が自然である。平安初期には、この説が主流だったのかもしれない。陵王が一頭の龍の舞であるという意識があれば、右方の納曽利は二人舞で、「双龍舞」というわけだ。この別名は案外二人舞への改作意図を示すものなのではないだろうか。
いろいろと推測を交えて解説した。案外初歩的な思い違いがあるのかもしれない。もし、私の知らない事実をご存知の方があったら、お教え願いたいものだ。
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