ご鑑賞の手引き(福岡町合併50周年記念公演)

 毎度ご来場ありがとうございます。本年は福岡町合併50周年記念の公演を行えることになりました。福岡町は古来雅楽の盛んなところで、洋遊会の他にも昭栄会という古い雅楽団体があります。合併後50年で現、石沢義文町長(洋遊会特別顧問)まで7人の町長が就任されましたが、そのうち5人はどちらかの会で雅楽を演奏されていた方です。これをもって歴史的な町の雅楽熱がおわかりいただけると思います。

記念公演にふさわしく、古い由緒のある曲や初めて挑戦する舞を並べました。ゆっくりとご鑑賞ください。

第一部


(1)神楽 其駒(そのこま)


 まず、宮中に古くから伝わる神楽、「其駒」をお聴きください。雅楽の多くは奈良、平安時代に唐や高句麗(こうくり)などから輸入された舞や音楽ですが、宮中の神楽はそれよりずっと前から日本で歌い継がれていたもので、日本音楽としては一番古いものと言えるでしょう。現在も宮中には「御神楽(みかぐら)の儀」という重要な神事があり、「其駒」はその最後に演奏されるとのことです。この歌をバックに「人長(にんじょう)の舞」という舞が舞われて神事が終わりになります。古くは秘曲とされて、一般の人の目や耳に触れることはありませんでした。歌詞は次の通りです。

其の駒ぞや我に(我に)草乞う 草は取りかわん 水は取り草は取りかわん

 つまり「馬が草を欲しがっているぞ草も水も取り替えてやろう」という単純な歌詞です。重要な神事の終わりに、なぜこんな単純な歌詞が出てくるのかはわかりませんが、曲調も全くこの歌詞のとおり、おおどかなものです。しばし神代(かみよ)の雰囲気におひたりください。

(2)管絃 越天楽(盤渉ばんしき調)


 有名な越天楽ですが、みなさまのご存知の曲とちょっと違います。結婚式でよく聴かれるのは平調(ひょうじょう)(西洋音階で言えばホ長調)の越天楽ですがここでは盤渉(ばんしき)調(ロ長調)の越天楽を演奏します。雅楽のうち唐楽(中国から渡来した音楽)には6つの調子があり、王朝時代の貴族たちは各曲をさかんに移調して楽しみました。西洋音楽の移調と違うのは、その際にメロディーも変えることです。各楽器の特性を活かし、響きの良い音を使うためにメロディーを変えてしまうのです。移調というよりは変曲に近いと言えるでしょう。

 貴族たちは各調の表情に季節感を感じたようで、平調は秋の調、この盤渉調は冬の調とされています。つまり、いつも聴かれる越天楽は秋用、ここで演奏される越天楽は冬用ということになります。貴族の感覚とは全く優雅で繊細なものですね。

 ご趣向として、この曲は洋遊会が日頃お世話になっている先生方、日本でもトップのお三方の笙、篳篥、龍笛のみの演奏でお聴きいただきます。

(3)黄鐘調音取(おうしきちょうのねとり)


 続いては黄鐘調(西洋音楽のイ長調)の曲を2曲演奏いたしますので、その前に黄鐘調音取を演奏します。これはもともと、音合わせのためのもので30秒ぐらいの曲です。前奏曲ともいえるでしょう。黄鐘調は夏の調とされています。

(4)越天楽(黄鐘調)


 今度は全員の合奏で黄鐘調の越天楽を聴いていただきましょう。つまり、これは夏用の越天楽と言うわけです。さっきの盤渉調はいかにもしみじみとした感じだったと思いますが、この黄鐘調越天楽は夏らしく爽やかに聴こえるでしょうか。実は、越天楽は唐の原曲が何調だったのか今では分からなくなっているのです。どれが本物か推理してみるのも面白いかもしれません。

(5)西王楽(さいおうらく)


 管絃の最後に、爽やかな黄鐘調を代表するような曲、西王楽をお聴きいただきます。名前の由来は西王母(せいおうぼ)という中国の女神で、食べれば不老不死になるという桃の木を持っていることで有名な神様です。只拍子(ただひょうし)と呼ばれる、4分の6拍子のテンポの良い曲です。

 作曲者は仁明(にんみょう)天皇。平安時代初期の、ちょうど在原業平や小野小町の活躍した頃の天皇です。

 この天皇は大変音楽の好きな方で、唐楽や高麗(こま)楽の演奏ばかりではなく、日本人の作曲や作舞を奨励しました。自らもかなり作曲されたようです。雅楽を日本人のものにするために、すぐれた功績のあった方です。この曲を聴く限り、屈託のない爽やかな青年君主だったと思われます。

第二部 


(1)舞楽 陪臚(ばいろ)


 洋遊会で、一番上演回数の多い舞です。鉾(ほこ)と楯(たて)を持ち、剣を帯びた4人の舞で、入場、破、急の3つの部分より成ります。

 この曲は起源が南アジアです。奈良時代に天竺(今のインド)の婆羅門僧正(本名菩提遷那)と林邑(ベトナム)の仏哲という2人の僧が日本へ伝えたことが、正史、日本後記に書かれています。婆羅門僧正は東大寺大仏の落慶法要で導師を務めた人で、落慶法要ではこの陪臚も上演されました。インドは仏教発祥の地ですが、ベトナムも当時高い文明を持つ仏教国でした。曲名は多分、インドかベトナムの言葉でしょう。

 古来、戦勝祈願の曲であり、出陣の前にはこの曲を演奏したのだと言われています。当時、大国から戦勝祈願の曲を習ったということは、今で言えばミサイルや最新兵器を輸入するような意味合いだったのかもしれません。古代人は音楽のもたらすパワーを本気で信じていました。曲の途中で、舞人が剣をおさめ、おごそかにひざまずくところがあります。昔はここで戦勝のご祈祷をしたのだろうかと想像されます。また、この舞の最後は一列になって順番に舞をやめ、退場していくという特殊な演出で、見ていると舞人が鉾と楯を持ってそのまま出陣して行くような気がします。

(2)舞楽 納曾利(なそり)


 破の曲と急の曲からなります。面をかぶった2人の舞です。

 奈良時代に高句麗(こうくり)の国から伝わった舞で、雌雄2匹の龍が天上で舞い遊んでいるありさまと言われています。納曾利という名前は意味が分かっていませんが、古代朝鮮半島の地名からとられたとの説があります。別名を双龍舞(そうりゅうのまい)とも言い、さらに、舞の途中で腰を落とし蹲(うずくま)る姿勢をとることから、落蹲(らくそん)という名もあります。源氏物語や枕草子には落蹲の名で登場します。紫式部などが活躍した頃から大変親しまれ、公式の行事でよく上演されました。雅楽には4人の舞か1人の舞が多く、2人の舞は珍しいものです。色鮮やかな面、装束とともに舞人の左右対称の動きがひとつの見所です。

(3)舞楽 賀殿急(かでんのきゅう)


 昨年の定期公演では、この賀殿急を管絃の演奏でお聴きいただきました。本来、この曲は中国から伝わった舞の曲です。中国で舞を習ってきた人もわかっており、遣唐使藤原貞敏という人です。この人は音楽目的に留学した人らしく、琵琶の名器、「玄象」や「青山」を日本に持ち帰ったことでも有名です。

 洋遊会の初挑戦としてこの舞を上演いたします。この日のために装束も一部新調いたしました。緑色の兜に緋色の装束を付けた4人の華麗な舞で、名前がおめでたいので、神社やお寺の落慶式典や創立記念、御殿落成のお祝いによく上演されました。江戸時代の学者政治家、新井白石の説によると、中国、隋の時代に、黄河と長江(揚子江)を結ぶ大運河を完成させた時、お祝いとして「河伝(かでん)」という舞を作らせた記録があり、おそらくこの舞のことではないかとのことです。それが本当なら、なおさら創立記念にふさわしい舞ということになります。

戻る