たびたび、「唱歌(しょうが)」という雅楽の教授法の話をした。このような方法はやはり一子相伝とか、限られた生徒相手の教え方であると言える。事実、雅楽の中には跡継ぎの息子か、一番弟子にしか教えない、「秘曲」という門外不出の曲が存在した。その秘曲の伝授の話をひとつご紹介しよう。この話には源義光(みなもとのよしみつ)という武将が登場する。平安中期の源氏の武士で、兄の源義家(みなもとのよしいえ)と並び称される勇将だった。兄の義家の方は、後三年の役(ごさんねんのえき)という奥州の反乱平定の時、空を行く雁の行列が乱れたことから近くに敵がひそんでいるのを覚(さと)った話で有名だ。
後三年の役(ごさんねんのえき)は、はじめ反乱軍が強く、兄の義家は大苦戦だったらしい。都でそれを聞きつけた義光は兄の応援のため、奥州へ行こうとした。ところが、安穏に慣れた朝廷ではこの戦いを武士の内輪喧嘩ぐらいに考え、義光の下向も正規の軍隊の出動も許さない。やむなく義光は官職を辞し、自分の力で軍勢をかり集めて奥州にむかった。軍勢が近江の国(滋賀県)まで来た時、後ろからただ一人、馬を飛ばして追いかけてきた若者がいる。見ると豊原時秋
(とよはらのときあき)という、宮中の笙(しょう)の楽家の若当主である。「日頃のよしみに報いるため軍勢に加わりたい」と言う。義光は不思議に思った。義光も笙を熱心に稽古し、この豊原時秋の亡父、時元の一番弟子だった。だから時秋を小さい時から知ってはいたが、いくさに楽人の助太刀など聞いたことがない。その上、宮廷人が朝廷の許さぬ軍隊に加わったら処罰されかねないのである。「お志はありがたいが、それには及ばない」と辞退しても時秋は強情についてくる。とうとうそのまま東国の足柄山にさしかかった。足柄山には当時関所があり、正規の軍隊でない義光一行はそこを通れないおそれがあった。義光は時秋を呼んだ。「明日はおそらく、関所破りになりますぞ。そうなると、二度と京へは戻れないかも知れません。貴方はやはり、ここから帰りなさい」。それでも、時秋は帰ろうとしない。しかし、その真剣な表情を見ているうちに、義光はふとあることに思い当たった。「笙を持っておられますね」。時秋に聞いたら、果たして彼はふところから笙を取り出した。そこで義光は「大食調入調(たいしきちょうにっちょう)」という笙の秘曲の譜面を広げ、朗々と唱歌をして教えた。「この秘曲は昔、貴方のお父上、時元殿から伝授を受けました。お父上が亡くなられた時、貴方はまだ子供だった。だから、この曲を教わっていないはずです。私が討ち死にしたら、貴方のお家の秘曲が絶えるところでした。これで安心です。今度こそお帰りなさい」。伝授を受けた時秋はようやく京をさして帰って行った。時秋は義光が秘曲のことに気づいてくれない場合は、奥州で討ち死にする覚悟でついて来たのである。古今著問集ほかにある話だ。
この秘曲、「大食調入調」は今も残っている。バッハのオルガン曲のような響きの名曲だ。後三年の役は源氏方の大勝利に終わり、義光の子孫は時代とともに数多く繁栄した。戦国の英雄、武田信玄はその一人とのことである。時秋の子孫もその後綿々と続き、今も宮内庁の楽人となっている。この曲は縁起の良い曲であったのかもしれない。
(平成14年5月20日掲載)
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