足柄山で、源義光から秘曲を伝授された逸話で有名な豊原時秋(とよはらのときあき)のご子孫は、現在も宮内庁の笙(しょう)の演奏者である。宮内庁の楽部には千年以上の家業を守り続けている方々がたくさんいる。何だか気の遠くなるような話だ。
ところで、そのご子孫の家には室町時代に書かれた「体源抄(たいげんしょう)」という家伝書があり、こんな話がのっている。平安時代の末、豊原光元(みつもと)という人がある寺の法要で、「皇帝(おうだい)」という難しい雅楽曲の笙を吹き、主催者の崇徳(すとく)上皇からお誉めのことばをいただいた。後に保元の乱で敗れる崇徳上皇である。気を良くした光元は続いて「団乱旋(とらでん)」という難曲を吹いた。すると、今度は上皇のご機嫌が大変悪くなり、「お前はその曲を誰に習ったのか。」と尋ねられた。光元はギクリとしたに違いない。実はこの「団乱旋」は他の家の秘曲をひそかに習い覚えたものだった。その様子を見た上皇は「今後その曲を吹いてはならない」と言われ、なんとかその場はおさまった。上皇は「団乱旋」の曲もそれが他家の秘曲であることもご存知だったのだ。秘曲というのは今日で言う著作権保護のような意味もあったらしい。ある重要な曲の公式の場での演奏を、作曲者とか、昔外国から伝えた人の一族に限ったのだろう。崇徳上皇は雅楽、文化の保護者の立場から、目の前の著作権侵害行為を咎められたのだ。
日本では雅楽だけではなく、他の芸能でも著作権保護のような慣習があるようだ。歌舞伎の世界に「歌舞伎十八番」というのがある。江戸時代後期の名優、七代目の市川団十郎(現在の団十郎は十二代目)が定めた市川家の得意演目である。たとえば「勧進帳(かんじんちょう)」などはその一つだ。市川家以外の歌舞伎俳優が「十八番」のうちの演目を上演する時は、今でも団十郎の許しを得るのだという話を聞いたことがある。おそらくこのような慣習は法律以上にきっちりと守られているのではないだろうか。
昔は雅楽の家にいろいろな秘曲があったそうだ。しかし、明治の初めに宮内省楽部ができた時、それらの秘曲を楽部がみな演奏できることになった。私の亡き先生の言葉を借りれば、「すべての秘曲が天皇にお返しされた」のである。ところが、ただ一つだけ残った秘曲がある。写真の「蘇莫者(そまくしゃ)」という舞だ。これだけは、今でも特定の家の人しか舞わないらしい。くわしい理由は誰に聞いてもわからない。この舞は雅楽の中で一番動きが激しく、少し不気味な感じのする舞だ。仮面をかぶった舞人と、横笛を持った貴人の二人が舞台に登場する。貴人は舞台上で実際に横笛を吹くのだが、この役は「太子(たいし)」と呼ばれる。言い伝えでは聖徳太子をあらわしているのだそうだ。確かに聖徳太子ゆかりの四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)では、この蘇莫者が舞われる。哲学者の梅原猛さんは名著「隠された十字架」の中で、この舞は失意に死んだ聖徳太子の霊が活動している場面だという考察をされていた。実は蘇莫者の舞を伝える家というのは秦河勝(はたのかわかつ)という人の子孫だ。秦河勝は広隆寺などを造った人で、聖徳太子の近臣として有名だった。例外的な秘曲として残されているのはそこにも何か理由があるのかもしれない。
(平成14年5月27日掲載)
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