百人一首の雅楽

 −五節舞(ごせちのまい)と琵琶の秘曲−
 テレビゲーム漬けかと思っていた現代の子供達の間で、百人一首が人気だそうだ。毎年チャンピオンを決めている学校もあると聞く。うれしい話だ。私は小さい頃から好きだった。といってもまともなカルタではなく坊主めくりばかりやっていたのだけれど、自然に歌を覚えてしまうものだ。高校で古文を習った時には「あの歌はこんな意味だったのか」とわかってずいぶん面白かったものだ。

 ところで、百人一首の歌人には雅楽の名人と伝えられる人がたくさんいる。しかし、その割には音楽や舞のことを歌った歌は少ない。私の思いつくのはたった一首だけである。

「天つ風 雲の通ひ路 吹き閉じよ 乙女の姿 しばしとどめむ」

僧正遍昭(へんじょう)の歌だ。

 子供の頃私は、坊さん姿の僧正遍昭の絵札にあるこの歌を見て、「坊さんのくせに乙女の歌を作るなんて変な人だ」と思ったものだ。しかし、実際はこの歌を作った時、遍昭はまだ出家前で良岑宗貞(よしみねのむねさだ)いう名のエリート官僚だったそうだ。そして、これは五節舞(ごせちのまい)という女性5人の舞を見て詠(よ)んだものだ。歌の意味は「目の前で舞っている乙女らはまるで天女のようだ。まことの天女なら、風で雲間が閉じて天へ帰れなくなってくれれば良いのに」ということだ。五節舞は現在では大嘗祭(だいじょうさい)、つまり天皇のご即位の時にだけ行われる舞である。私もこの五節舞だけは実際に見たことがない。平成のはじめの大嘗祭で60年ぶりに行われ、その直後に舞がテレビ放映されたのでしっかりビデオに収めた。華麗な装束の若い女性の舞で、本当に天女のように見えた。この歌の作られたのは、平安初期の仁明(にんみょう)天皇の時だ。仁明天皇は歴史上雅楽好きで有名な方だ。この時の五節舞も名歌を生んだだけに素晴らしかったのだろう。

 他には雅楽が題材の歌は無いが、通常琵琶を持った絵姿で描かれる歌人がいる。蝉丸(せみまろ)である。

歌は、「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも逢坂の関」

 蝉丸はこの歌に詠まれた逢坂(おうさか)の関(今の大津市)に住んでいた琵琶の上手な僧という以外、確かな伝記が無いそうだ。そんな人が百人一首に選ばれたのは、次の伝説で有名だからだろう。平安時代の中ごろ、源 博雅(みなもとのひろまさ)という雅楽の名人がいた。この人が琵琶の秘曲として貴ばれる「流泉(りゅうせん)」と「啄木(たくぼく)」という曲を、何とかして知りたいと思った。噂では逢坂の関に住む蝉丸が知っているという。しかし秘曲というのは、つまり秘密の曲だから簡単には教えないし、聴かせもしない。そこで、意を決した博雅は毎晩京から逢坂の関まで出かけ、蝉丸の庵(いおり)のかたわらで琵琶を立ち聴きした。通い始めて三年目に、蝉丸がとうとうそれらしい絶妙の曲を弾いたが、聴いた博雅はうれしさのあまり声をあげたので見つかってしまった。しかし、蝉丸は三年間の博雅の努力を認め、二曲とも丁寧に教えてくれたという話だ。今昔物語などに伝わる逸話だ。だが、この二人のあとには熱心な雅楽人が続かなかったのか、曲の方が二つとも現在伝わっていないのが残念だ。
(平成14年1月14日掲載)

あとがき



 ご即位の10年後に、ご即位式典で上演した舞楽をもういちど宮内庁楽部が上演されました。この時も五節舞は見られませんでした。あるいは五節舞だけ再演しなかったのかもしれません。ご即位の時には宮内庁職員の子女が舞われたとのことです。童舞などをやる雅楽団体は経験されていると思いますが、上演後しばらくたってから、同じものをまたやろうとしても、舞人である子供達が成長してしまって駄目だということがよくあります。五節舞も原則として未婚の女性が舞うわけですから、年月が経つと同じメンバーでの上演は難しいはずです。

 ところで琵琶の話ですが、私の「雅楽1,300年のクラシック」で琵琶のことを書いたのは、この文章ぐらいだということに気がつきました。琵琶は私がやらない楽器ですから、あまりよく知らないのです。そもそもアマチュアの雅楽で琵琶が登場するのは、かなりしっかりした団体だと言えるでしょう。先日の金沢公演で、「アマチュアの雅楽琵琶奏者は、全部で10人以下ではないか」と説明しましたが、あながち誇張ではないと思っています。

   金沢公演の琵琶は、多忠輝先生の助演の他、東京、絲竹会の前田利祐さんにもボランティア出演していただきました。ご存知のとおり、金沢ゆかりの方です。「お宅にはお家伝来の琵琶など、たくさんございますでしょうね」と伺ったところ、「私は東京では、絲竹会の琵琶を借用しているんですよ。しかし、庫(前田家の尊経閣(そんけいかく)文庫のことか)の方には古いのが二面ぐらいあったかもしれません」とのことでした。百万石のご身代で楽琵琶が二面というのは、考えてみれば、そう多くないという気がします。実は、前田さん自身がご存じないお蔵にどっさりあるのかもしれないけど、やはり楽琵琶は江戸時代にも、持っている人が珍しい楽器だったのでしょう。

 今回の公演では前田さんに、石川県の人が作った琵琶を使用していただきました。公演前日に琵琶の作者から「明日お使いください」とのことで、見事な撥(ばち)が2つ届きました。見ると両方に、丁寧に彫られた剣梅鉢のご紋が付いていたのでびっくり。さすがは加賀の職人さん、やることがにくいです。

 前田さんの演奏は、まず姿に風格が感じられるのに感心しました。この楽器、私は雅楽に風格を与えるべき楽器だと考えています。もともと音色に風格がありますが、弾く姿も重要です。身分の高い人が好んで弾いたというのはもっともだと感じます。源博雅(みなもとのひろまさ)にしても、博雅三位(はくがのさんみ)という別名があるくらいです。三位というのは大変高い身分で、今で言えば閣僚級にあたります。貴族中の貴族か、蝉丸のような仙人めいた人が弾く楽器というのが私のイメージなのですが、皆様の琵琶のイメージはいかがでしょうか。

戻る