紙一重の違い

 −入学試験と歌合(うたあわせ)−
 舞台の上で、あがったり緊張したりするのは我々のようなアマチュアだけでは無い。大芸術家でも緊張による失敗の話は数々あるらしい。

 名指揮者カラヤンはベルリンフィルとの日本公演でプログラムの順番を間違え、一つあとの曲を指揮したことがあるそうだ。しかし、さすがはベルリンフィルだ。カラヤンが棒を振り上げた途端全員が彼の勘違いに気づき、指揮を見ずに、バイオリンのトップ奏者に合わせて正しい曲を演奏したと言う。

 平安時代の話で、源博雅(みなもとのひろまさ)という雅楽の名人の失敗談がある。一度紹介した、蝉丸(せみまる)の家で三年間立ち聴きして琵琶の秘曲を覚えたという逸話の人だ。村上天皇の頃、「天徳の内裏(だいり)歌合(うたあわせ)」という平安朝で最も有名な歌合(うたあわせ)があった。歌合とは、左右に分かれて和歌の優劣を争う、和歌の紅白歌合戦のようなものである。この時、名人で声の良い博雅は頼まれて右方チームの講師(こうじ)になった。歌を読み上げる役だ。現在の宮中の歌会始めでも、講師が朗々と和歌を読み上げるので、テレビで見た方は感じがおわかりだろう。ところが、この晴れの舞台で博雅は大失敗をした。読み上げる歌の順番を間違えたのだ。歌合というのは「春霞(はるがすみ)」などから始まって季節順に題材が進むものらしい。博雅は三番目の「鶯」の歌の紙を間違えて、その次の「青柳(あおやぎ)」の歌を読んでしまった。先に、相手方の鶯の歌が披露され、全員固唾(かたず)を飲んで注目しているところへ大声で、「青柳をーっ」とやったのだからたまらない。満場の失笑の中、博雅はあわてて鶯の歌を読み直したが声は動揺の為にかすれ、ほとんど聞こえなかったそうだ。これが原因かどうかわからないが、歴史に残る天徳の歌合は右方の大敗に終わった。

 私も博雅のように紙を間違えて大失敗をした経験がある。雅楽の話ではないが、大学の入試だから私にとって大事件だった。私は数学が割に得意で、入試の数学の問題を見た時「これはいただきだ」と思った。順調に解答を書き終え最後に点検してみると、驚いたことに二枚あった解答用紙の順番を間違えている。冷静に考えれば「用紙を間違えました」とでも注記しておけば良かったのだが、その時はそんな知恵は出ない。一旦書いた解答を全部消しゴムで消して、書き直そうとした。すると、今度はあせっているからさっき書いたはずの解答がまるで浮かばない。とうとう時間切れで、白紙で提出してしまった。さすがにがっかりだ。つまらない顔をして毎日家で寝ころんでいた。何日かたって、意外なことに合格通知が舞い込んで来た。半信半疑で入学はしたものの、暫くの間は合格が間違いのような気がして落ち着かなかったものだ。

 今から考えると、他の科目の成績がよほど良かったのだろうか。大失敗はあったものの、普段以上の力が出ていたのかも知れない。雅楽の公演でミスをしたと悔やんでも、あとで録音を聴いてみたらそのミスが帳消しになるくらい、全体が良かったという場合もある。源博雅も、歌合の直後には篳篥(ひちりき)の素晴らしい演奏をしたと書かれている。「火事場の馬鹿力」と大失敗はそれこそ紙一重の違いなのだろう。
(平成14年3月25日掲載)

あとがき



 この話で書いたカラヤンの失敗談は、実は勘違いで翌日のプログラムの曲を振ってしまったというものでした。R.シュトラウスの交響詩、「英雄の生涯」を振るべきところ、ドビュッシーの「海」を振り始めたのです。「それなら、ベルリンフィルでなくても俺にだってわかりそうだ」と思うクラシックファンもいらっしゃるかもしれません。この2曲は始まりの感じが大分違いますからね。オケは指揮とは関係なく、一糸乱れずに「英雄の生涯」を演奏し始めたけれど、さすがにカラヤンはとりやめを指示し、休憩時間をおいた後ちゃんとやり直したとのことです。

 天徳の内裏(だいり)歌合(うたあわせ)は、一般的には次のエピソードで有名です。最後の勝負、「恋」の歌題に出た左方の歌は、壬生忠見(みぶのただみ)の「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひ初(そ)めしか」。いっぽう右方の歌が、平兼盛(たいらのかねもり)の「忍ぶれど 色に出(い)でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」。どちらも秘密の恋を歌った名歌で、参加者は全員内心では感心しました。だが、そこは何しろ試合中。トータルでは左方の大勝が確定していたものの、この題についても左方の面々は忠見の、右方は兼盛の歌を高らかに朗詠して勝ちを主張し、収拾がつかなくなりました。判者、すなわち審判を務める左大臣藤原実頼は困って村上天皇の様子をうかがったところ、天皇はたまたま右方、兼盛の歌を口ずさんでいるまっ最中。そこで、「最後の歌は右方の勝ち」と宣言して、強引に歌合を終わらせました。しかし、あとから考えると、どうも左方の歌のほうが良かったような気がして生涯悩んだとのこと。また、左方の歌人、忠見は最高の自信作が負けになって気を落とし、食事ものどを通らず病死してしまったと伝えられます。二つの名歌はともに百人一首に収録されています。と言うよりは、藤原定家が百人一首に二つの歌を入れたのは、このエピソードがあまりにも有名だったからだと言われています。和歌に命をかけた定家の好きな話でもあったのでしょう。

 さて、この歌合のとき講師(こうじ)源博雅(みなもとのひろまさ)は、本当は紙を間違えたのではないのです。左方も右方も庭前に州浜(すはま)という大きな盆栽のようなものを置き、それに金銀細工でつくられた樹木を飾り、それぞれの歌は木に咲かせた金銀造りの花や木の葉に書いてあったというから、さすがに貴族のやることは違いますね。博雅はその木の葉を間違えたわけで、ひょっとしたら金銀細工に眼がくらんだのかもしれません。この人、今昔物語などの物語の世界では、蝉丸から秘曲を習ったり、泥棒を篳篥で改心させたり、音楽の神様みたいな話ばかりですが、確かな記録や正史では、この大ミスの話が一番有名なのだから気の毒です。もっとも、彼の編纂した「長秋卿竹譜」や名曲「長慶子」などは今日まで残る偉大な音楽的業績です。

   私の受験の話ですが、このとき数学の試験は入試全体のしょっぱなでした。ですから、致命的ミスのあともあきらめなかったところが、手柄と言えば言えるかもしれません。受験の場合も舞台も、仮に失敗があっても堂々と最後までやってほしいものです。

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