清少納言がクツワムシにたとえたとか、平安時代にはボディガードの吹く楽器だったとか篳篥(ひちりき)についてあまり芳しくない話が続いた。そこで、名誉挽回となる話をしておこう。
たびたび取り上げる鎌倉時代の雅楽書、「教訓抄」にはいろいろな楽器の名器の話が書いてある。例えば琵琶でいうと一度鬼に盗まれ、雅楽の名人源博雅(みなもとのひろまさ)が取り返してきたという「玄象(げんじょう)」という琵琶などが載っている。その中で、篳篥の名器の筆頭にあげられているのは「海賊丸」という変な名の楽器である。あまり優雅とも思えないこんな名前がついたのは、この楽器にまつわる伝説によるのである。その伝説は教訓抄だけではなく、同じく鎌倉時代に書かれた、「古今著問集」をはじめ多くの書物に載っている。当時かなり有名な話だったようだ。
平安時代のいつの頃にか、篳篥吹きの和爾部用光(わにべのもちみつ)という人が四国から京へ船で帰る途中海賊に襲われた。ちなみに、日本最初のかな書き日記と歴史の授業に習う、紀貫之の、「土佐日記」も同じく四国から京への旅日記だ。この日記で、貫之も海賊のことをずいぶん心配している。当時ここは海賊の名所だったのだろう。用光は身ぐるみはがれた上に殺されそうになった。覚悟を決めた彼は海賊に頼んだ。「私は篳篥吹きだ。今生の名残(こんじょうのなごり)に一曲だけ篳篥を吹かせてくれ」。海賊もそれくらいならと許してくれたので、これが最後と心を落ち着け、得意の「臨調子(あがじょう)」という曲を吹いた。この曲は惜しいことに、現在篳篥の譜面が伝わっていないが、横笛の譜が残っている。かなり哀切なメロディーの曲である。それをおそらく、四方の海にも響くくらいに吹いたのだろう。聴いていた海賊は次第にひきこまれ、感激の涙を流しはじめた。とうとう、「命は助けよう。取った物も返してやろう」とみな返してくれた。その上、途中海賊などに遭うとあぶないからと(変な理屈だが)淡路島まで見送ってくれたという話だ。その時、用光が吹いた篳篥が後の世に伝わって、名器「海賊丸」と名づけられたというわけである。
この話だけではなく、平安時代や鎌倉時代の伝説には音楽によって雨を降らせたとか、盗人を改心させた、頑固な老僧も感涙にむせんだという話がたくさんある。それらはたいてい篳篥にまつわる物語なのである。篳篥の音色や旋律には、何か聴くものの心を直接ゆさぶるような所があるのだろう。清少納言のような才女や貴族には人気が無くて、海賊や盗人ばかりが感心する楽器というのも変なものだが、そんな特徴のある篳篥が私はやはり好きだ。
(平成13年10月新聞掲載 「雅楽1,300年のクラシック 132ページ)
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