主計頭(かずえのかみ)と雅楽頭(うたのかみ)


−意外な人物も就任−
 私の友人、高木繁雄君が北陸銀行の頭取に就任した際、頭取の語源が雅楽にあるというお話をしたことがある。高木君や私がいた東京富山県学生寮はよほど人材がそろっていたものと見えて、最近官庁の局長に就任した人が二人出た。まず、私と高校の同級生でもある林幸秀君が、文部科学省の科学技術・学術政策局長になった。ノーベル賞の富山にふさわしい人事だ。それから、寮で私の一年先輩である細川興一さんが、財務省の主計局長になられた。これは官界では名だたるポストだ。昨年の高木君の就任とあわせ、新年早々東京で仲間うちの祝賀会を開いてきた。

 そこで、例によって名前の講釈をする。林君の科学技術・学術政策局というのは新しい名前で、先の行政改革による産物だそうだ。省の合併もあって仕事の範囲が大幅に広がった。それをあらわすために苦心の末、決めた名前とのことだ。いかにも学問の総元締めという感じがする。一方細川さんの主計局は雅楽と同じくらい古い。律令時代からのものだ。奈良朝以来、歳入、歳出をあつかう主計寮という官庁があった。訓読みでは、「かぞへのつかさ」あるいは「かずえのつかさ」と言った。長官は主計頭。「かぞへのかみ」あるいは「かずえのかみ」と読む。これが現代の主計局長にあたる。

 主計頭には面白い人もいた。「加藤主計頭(かずえのかみ)」とは誰のことかおわかりだろうか。戦国の豪傑、加藤清正だ。清正は主計頭の官職であった。ただし、戦国時代は日本の律令制度が有名無実になっていた。したがって官職も実際の仕事を伴わず、ただ、その人の権威づけや格付けの意味だ。それにしても朝廷から授かった官職だから、清正も名誉に思って日常、「加藤主計頭」と名乗っていた。彼に向かって「主計頭様」ではなく、「清正どの」などと呼びつけたら、槍で突き殺されたことだろう。それに、清正は官職にふさわしく計数にも強かったかもしれない。戦国の名将は例外なく数字に強かった。現在日本に残る最古の算盤(そろばん)は、尊経閣(そんけいかく)文庫にある前田利家の算盤だそうだ。利家が陣中で使用したものだと言う。考えて見れば戦さをするには費用もかかるし、兵糧(ひょうろう)武器弾薬の計算がつきものだ。数字音痴では、とても大将は勤まらなかったはずである。

 それでは、律令制度で雅楽を司る役所はあったのだろうか。実は雅楽寮という官庁があった。「うたまひのつかさ」と訓読みする。ここの長官は雅楽頭。「うたのかみ」と読む。これもなかなか名誉ある官職だった。江戸時代には幕府の大老で姫路城の城主、酒井家が代々世襲した。すなわち酒井雅楽頭(うたのかみ)である。しかし江戸時代ともなると、いよいよ官職は有名無実で、酒井家の殿様で実際に雅楽の名手がいたという話は聞いたことがない。

 当時に引き換え、現代の局長は名実ともに重責だ。私は細川さんも林君も、いずれは必ずそのポストにつく人たちだと思っていた。ただ、これほどの難局の時に当たるとは予想していなかった。二人の今後の大健闘を祈りたい。

(平成15年1月新聞掲載 「雅楽1,300年のクラシック 184ページ)

あとがき



 この記事で紹介した林幸秀君は、その後、内閣府総合科学技術会議の副議長になりました。副議長は林君で、議長は小泉首相が兼任なのだそうであります。細川興一さんは現在財務省の事務次官です。こんな役職は、とんでもなく優秀で偉い人たちがやるものと思いこんでいたところ、このところ私の友人が続々とその身分になりました。彼らとは昔、学生寮の部屋で一緒にネッスルのインスタントコーヒーをすすりながら、ラジオの山本リンダなどを聴いたものです。それを思うと、なんだか今まで感じてきた世の権威のいかめしさが一挙に薄らいだような気がします。もっとも、それは彼らも同じで、冴えない学生だった私が、のちのち宮廷音楽についてもっともらしい顔をして語るようになるとは夢にも思わかったことでしょう。先がわからないから人生は面白いです。

 主計頭(かずえのかみ)にしろ雅楽頭(うたのかみ)にしろ、武家の任じられた朝廷の官職は実質の役割を伴わない勲章のようなものだったそうです。もちろん給料もありませんでした。ところが、諸大名にとってはこの官職が最大の関心事で、任じてもらうためにかえって大金を使ったようです。現代の会社の社長などが、立派な勲章を貰うために猛烈な工作をするのと似ています。高級な官職を貰ったら何が大きな違いかというと、たとえば、勅使供応など江戸城中の行事で着用する装束の色が違ったそうです。こんなことを、昔は生死にもかかわる家の名誉の問題と考えたのです。それから見ると今の洋遊会の舞人さんたちは、公演のたびに高級貴族用のすばらしい色合いの装束を着用しているわけだから幸せなことで、今の世の中はやっぱりありがたいと感じます。

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