シルクロード亀茲国(きじこく)の葦笛(あしぶえ)

 私の一番親しみ深い楽器、篳篥(ひちりき)のことについて説明をしよう。篳篥は雅楽の中で主旋律を奏でる楽器だと言われている。私の考えでは、これが一番音の大きい楽器なので、主旋律のように聴こえてしまうと言った方が実態に近いと思う。そのくせポケットに入る程小さい楽器である。本体の管は竹で作られ、樺や籐を巻きつけたものであり、その管に葦(あし)をつぶして作った舌を差し込んで吹く。鳴るのは葦の舌、つまりリードの方で、管は共鳴させて音を大きくし、さらに音程をとるためにある。オーケストラで使うオーボエやクラリネットと同じく、葦笛の仲間である。

 余談であるが、チャイコフスキーのバレエ曲「胡桃(くるみ)割り人形」の中に「葦笛の踊り」という曲がある。大変華麗で、魅力的な曲だ。ところがこの曲で大活躍するのはオーボエやクラリネットでなくリード楽器ではない、すなわち葦笛の仲間ではないフルートなのである。それなのになぜ「葦笛の踊り」なのか、聴くたびにふしぎに思う。バレエの筋を作った人とチャイコフスキーの間で何か連絡の手違いがあったのではないだろうか。

 篳篥は中国から日本に伝わった楽器だが、中国の唐時代の「通典」という、百科事典のような本には唐の西方の「亀茲国(きじこく)」という国の楽器だったと書いてあるそうだ。亀茲国というのはシルクロードの途中にあった国である。現在はクチャ県といって新疆ウイグル自治区にある。「西遊記」では、ここで沙悟浄(さごじょう)という妖怪が現れて孫悟空に退治され、三蔵法師に付き従うことになっている。ご存知のとおり玄奘(げんじょう)三蔵(さんぞう)は実在の人物で、唐時代に本当に天竺(インド)へお経を取りに行った僧である。その時の旅行記、「大唐西域記」によれば確かに、途中亀茲国に立ち寄っている。現実には妖怪どころか仏教寺院の立ち並ぶ大文明国だったらしい。現在も残っている有名な仏教遺跡、キジル千仏洞やクムトラ千仏洞はその跡とのことだ。この国は大変音楽の盛んな国で、亀茲の楽といえば唐にまで名がとどろいているとも書いてある。三蔵法師も、この時亀茲の篳篥を感心しながら聴いたのであろうか。

 しかし、この国は東西の中継貿易で発展した国だ。私の想像では、篳篥の原産国はこの亀茲国よりもさらに西で、もとはインドか中近東に、オーボエと篳篥の共通の先祖にあたる楽器があったのではないかと思う。その楽器が東と西へ伝播して、東では篳篥やチャルメラに進化し、西へ行ったのがオーボエやクラリネットに進化したのではないだろうか。何しろ雅楽の歴史以上に古い話だからこれを証明するのはなかなか困難なこととは思うが、ひょっとしたらもうどなたかが研究されているかもしれない。

(平成13年富山新聞掲載、「雅楽1300年のクラシック」P.114)

あとがき



 平成16年のクリスマスイブに金沢音楽堂へバレエ、「胡桃(くるみ)割り人形」の公演を見に行きました。私にとってクリスマス音楽とは賛美歌やミサ曲よりも、この「胡桃(くるみ)割り人形」とかオペラ、「ラ・ボエーム」、そうでなければジングルベルなのです。そこはキリスト教信者ではないものだから、お祭気分の曲ばかりなのは仕方ありません。休憩時間に飲み物の行列に並んでいたら、前のほうに見かけたような若い人がいる、よく見ると私の連載や出版の担当者だった新聞社のBさんでした。家族で来ていたらしく、コーラやコーヒーをたくさん注文していました。ちょっとうらやましかったですね。私の娘らは当日仕事やバイトに忙しく、私は一人で来ていましたから。その場で彼から聞いた話では、「胡桃(くるみ)割り人形」は初演の後、振り付けに大変更があったのだそうで、「葦笛の踊り」には「キャンディーの踊り」という別名があるとのことです。どちらの名前がオリジナルだったか彼も忘れたと言っていました。どうも、「葦笛の踊り」はチャイコフスキーのつけた名前ではないのではないかという気がしました。これは今後調べて見ます。ただ、当日気がついたのは、この曲、フルートが終始大活躍するけれど途中に一ヶ所イングリッシュホルンが物憂いメロディーを奏でるところがありますね。イングリッシュホルンは大型のオーボエで代表的なリード楽器、すなわち葦笛です。案外これを念頭においた曲名なのかもしれません。

 オーボエと篳篥の先祖が同じではないかと言う想像を書きましたが、ヨーロッパの音楽はアジアから多くのものを取り入れたのは確かだと思います。バイオリンのもととなった楽器も中東の楽器だと言われているそうです。バイオリンそのものはイタリアで作られましたが、イタリアはご存知のとおり、十字軍遠征後、中東との地中海貿易で大発展しました。音楽を始めとする文物も中東経由でかなり輸入したのでしょう。近代ヨーロッパの音楽は、まずイタリアで発達しました。現在でも音楽用語にイタリア語が多いのは、この頃の遺産です。そのイタリアの北部を抑えたのが、オーストリアのハプスブルグ家で、それが「音楽の都」、ウィーンへとつながっていくわけです。映画、「アマデウス」をご覧になった方は覚えているでしょうが、初期のオーストリア宮廷を支配した音楽家はモーツァルトではなく、サリエリをはじめとするイタリア人たちでしたね。音楽ひとつをとってみても、世界各地の歴史はお互いに影響しあっていることがよくわかります。

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