「蜻蛉日記」、雅楽で弓の応援


−子供に似合う納曾利の装束−
 ソルトレークシティの冬のオリンピックが熱くなってきた。いつのオリンピックでもそうだが、始まるまでは「警備が大変だ」とか「こんなにお金をかける必要があるのか」などと、いろいろマイナス面もささやかれるのに、いざ始まってみると今まで批判していた人が一緒になって熱狂してしまう。どうやら、今回もそんな様子だ。

 オリンピックの日本チームは選手だけではなく、応援団も十分に特色を発揮していると思う。例の「ニッポン、チャチャチャ」のかけ声は気分を出すのに無くてはならないものだし、いつも現地のテレビやカメラの標的になる紋付き姿で鯉のぼりを振る人は富山県の方だと聞いたことがある。私はかつて東京で働いていた頃、テレビであの姿を見るたびに富山がなつかしかったものだが、今回は行かれたのだろうか。

 平安朝の貴族社会もスポーツのイベントが多かったようだ。最大のイベントは競馬と相撲と弓だ。もっともこれらは儀式的な意味あいが強かった。とは言うものの、そこはやはりスポーツの勝負だから、応援団も熱狂したらしい。応援には雅楽や舞がさかんに使われた。

 いつかも話したとおり、平安朝の勝負は何でも左方(さほう)対右方(うほう)で行われ、宮廷の楽所、つまりオーケストラも左右の二つがあった。雅楽の舞は現在でも左舞(さまい)と右舞(うまい)に分かれている。平安初期の仁明天皇が二つに分けられたものだが、案外これはスポーツの応援の都合だったのかもしれない。今の応援と少しちがうところは、勝負をやっている間は静かにしていて、終わったあとに勝った方の応援団だけが音楽と舞をやったことだ。負けた方の応援団は何もやらなかった。応援というより、勝利のお祝いのようなものだったのだろう。本当の応援はもっぱら神仏に祈ったようだ。

 有名な「蜻蛉(かげろう)日記」にそんな場面がある。ご存知のとおり、これは藤原(ふじはらの)道綱母(みちつなのはは)の書いた日記だが、息子の道綱が宮中の弓の試合で右方チームの選手に選ばれたという話だ。弓だけではなく、勝ったときの舞も道綱がやることになった。演目は写真の絵にある納曾利((な)そり)という舞だ。この絵では青い面をつけているが、子供が舞う場合は面をつけず銀の冠(かんむり)をかぶることになっている。道綱はなかなか姿の良い少年だったらしく、練習やリハーサルでは青い装束と冠(かんむり)がよく似合って実にかわいらしい。ところが、弓で負けてしまったら、せっかくの舞を披露できないのだ。公式行事だから、天皇はもちろん、主だった貴族はみな観戦する。その中でこの姿を見せたいのは母親の人情だ。下馬評では右方チームの旗色が悪いということだったので、道綱母(みちつなのはは)はひたすら神仏に祈り始める。さて当日の弓で、初め劣勢だった右方チームは、少年道綱の意外な活躍がありとうとう引き分けに持ちこむ。引き分けだと双方が舞をやるのである。舞もたいそう上出来で、道綱は感心した天皇からごほうびまで賜ったというハッピーエンドでしめくくられている。蜻蛉日記の作者はこの部分をいちばん幸せな気分で書いているのではないだろうか。

(平成14年富山新聞掲載、「雅楽1300年のクラシック」P.144)

あとがき



 もう次の冬季オリンピックが迫ってきましたね。この記事は前のオリンピックのさなかに新聞に書きましたが、月日のたつのは早いものです。

 納曾利の童舞をはじめて見たのは、私が大学生の頃、昭和40年代でした。国立劇場で走舞(はしりまい)の特集をやったのです。手元にプログラムを残していないのが残念ですが、全部で八つぐらいあったでしょうか。後に私の師になる東儀和太郎先生が還城楽を舞われましたし、他にも錚々(そうそう)たる大先生の舞がありました。しかし、いつもは大変面白く感じる走舞も、そればかり続けて見ると飽きるものですね。3つ目ぐらいから、「普通の平舞も見たいな」という気がきざしはじめ、休憩後はすっかりくたびれてしまいました。国立劇場としてはそれなりの意義を見出だそうとした企画なのでしょうが、観客に見せるためのプログラミングという点では失敗だったのではないかと思います。舞の中では胡飲酒(こんじゅ)が一番面白く感じられました。今から考えると、この舞は他のものと違ってフリーリズムの序がついており、いかにもほろ酔いの雰囲気をかもしだします。それが面白かったのだと思います。

 他の観客も私同様ややくたびれた様子でしたが、拍手喝采だった舞が一つだけありました。それが納曾利の童舞です。「急」だけでしたが小さい舞人二人が並んで現れた瞬間から観客がざわつき始め、例の流麗なメロディーの中、首尾よく舞い終わって引っ込んでいく時には万雷の拍手でした。納曾利の青い装束は、色白の子供に本当によく似合います。今も眼に浮かぶくらいの可愛らしさで、他の大先生たちの舞がすっかり喰われていたことは確かでした。あの時の可愛らしい子供の一人が、今、怖い顔をして洋遊会を指導されている東儀雅季(まさすえ)先生だったというのがどうも信じられません。

 あのとき、舞人の可愛らしさが引き立ったのは、装束だけではなく銀色の天冠がきいていたのだなと思いつきました。そこで洋遊会が童舞を上演する時、徹底的にこの銀の天冠にこだわりました。雅季(まさすえ)先生にうかがった上、装束屋さんに全くそのときのものと同じに作ってもらいました。出来栄えはよかったものの恐ろしく高くつき、会計係から散々文句を言われました。金の天冠の十倍ぐらいかかりましたね。しかも、当然二つ作らなければなりません。銀が金より高いのは意外だったけど、考えてみれば金の天冠は巫女さんが神楽などでよくかぶるので、市販しています。銀の天冠などという酔狂なものを作る団体はあまりいないに違いありません。量産しないものはべらぼうに高いというのは、現代の常識です。しかし、無理はしたものの、お陰でうちの会にはよそにめったに無い宝物ができたと内心喜んでいるのですが。

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