ぎっちょう冠者(かんじゃ)

 −人気スポーツ、ホッケーの舞−
 蜻蛉(かげろう)日記の作者の息子、藤原(ふじはらの)道綱(みちつな)は弓と舞で活躍をした。その大活躍の話のあとにこんなことを書くのは、ちょっと悪いような気がするけれど彼の後日譚(たん)がある。

 長じてからの道綱はやはり美男で人柄も良かったが、高級官僚としての働きにはいささか疑問符がついていたらしい。名門出身なので長らく大納言という地位にあった。大納言は大臣のすぐ下の官職だが、この二つの間には大変な格のちがいがある。そこで、道綱は時の権力者である摂政、藤原道長に自分の大臣推薦を頼みこんだ。「一ヶ月でも良いから大臣になりたい」と嘆いたというから、現在の永田町にもありそうなせりふだ。頼まれた道長は、気の毒に思ってまわりの高官たちと相談したが、反対意見ばかりだった。道綱は「一文不通の人」つまり漢文の文書が全く読めない人だから、とても大臣は務まるまいということでこの話はお流れとなった。彼はスポーツと舞が大好きで、勉強はきらいだったのだろう。

 平安時代の貴族はかなりスポーツ好きだったらしい。道綱の得意な弓は摂政道長もうまかったようだし、天神様、つまり菅原道真も若い頃、弓が上手で人を驚かした逸話を持っている。他のスポーツでは蹴鞠(けまり)が有名だが、それ以外にも人気だったスポーツがある。意外にもオリンピックの花形、ホッケーである。と言っても、もちろん氷の上ではなく陸上のホッケーだ。当時の名称を「打球(たぎゅう)」と言う。あるいは、ホッケーのボールを打つスティックを毬杖(ぎっちょう)と言ったことから、スポーツそのものを「ぎっちょう」とも呼んでいたらしい。

 平家物語にそれが出てくる。終わりに近い部分だが、荒行(あらぎょう)で名高い文覚(もんがく)上人が後鳥羽天皇のとがめを受けて島流しにされた。のちに承久の乱で有名になる後鳥羽天皇である。そのとき文覚上人は天皇のことを「かのぎっちょう冠者(かんじゃ)こそ安からね。」と言ったということだ。「あのぎっちょう(ホッケー)マニアの小僧め、けしからんやつだ。」という意味だ。天皇をつかまえてこんなことを言う文覚という人も相当の坊さんだが、これは後鳥羽天皇が「ぎっちょう」にあまり熱心だったのでこう言われたと、平家物語に書いてある。

 写真の絵は「打球楽(たぎゅうらく)」という雅楽の舞で、「ぎっちょう」を題材としたものだ。金襴つきの裲襠(りょうとう)という装束でカラフルな毬打を持った四人が、これもカラフルな球子(きゅうし)(ボール)を追いかける仕草をする。見た目にもきれいだが、舞う方も実際のスポーツのような爽快な気分になる舞である。ただ、私はこれを舞いながらいつもふしぎに思うことがある。この舞には「玉(たま)掻(が)き手(て)」と言って、ボ−ルを前から後ろへ引っかくように打つ動作ばかりあるのだ。「ぎっちょう」の詳しいルールは分かっていないそうだが、ひょっとしたら昔のホッケーは今のホッケーと逆で、相手のゴールを狙うのではなく自分の陣へボールを奪ってくる競技だったのではないかという気がする。スポーツの歴史に詳しい人に一度確かめてみたいものだ。

平成14年富山新聞掲載、「雅楽1300年のクラシック」P.146)

あとがき



この記事は当初の新聞原稿では玉掻き手の話の替わりに次の記事が入る予定でした。

 「左ぎっちょ」という言葉がある。私は、これはもともと「左バッター」のような意味で、この「ぎっちょう」から出た言葉ではないかと想像しているが、どの辞書にもそのことは書いてないようだ。

 ところが、朝刊掲載の前夜新聞社から突然電話があり、「“左ぎっちょ”という言葉は差別語なので現在新聞では使っておりません。今更で申し訳ないが、他の言葉に差し替えてもらえませんか」とのことでした。“左ぎっちょ”が差別語だったとは驚きましたが、この言葉を除いては説明が成り立たないので、急遽玉掻き手の話に切り替えたのです。その間、新原稿をメールするまで10分かからなかったので新聞社からずいぶん感謝されました。差別語というのもやや杓子定規のものだと思います。たとえば、「音痴」はまずいが「数字音痴」は良いのだそうです。これなどわからない話です。

 記事にあるとおり「ぎっちょう」は毬打(ぎっちょう)または毬杖(ぎっちょう)と書きますが、「左ぎっちょ」だけではなく他にもおなじみの派生語を残しています。正月の行事、「さぎちょう」です。今年の正月も私は町の盛大な「さぎちょう」で餅や酒を振舞われてきましたが、この「さぎちょう」が実は毬杖(ぎっちょう)の派生語らしいのです。正しくは三(さ)毬杖(ぎちょう)と書きます。「ぎっちょう」は、もともと記事のとおり貴族の愛好したスポーツでしたがだんだん子供の遊びになり、しかもお正月の遊びになっていったのです。たとえば、凧揚げや羽根突きのようなものだったのでしょう。そこで、正月が終わるとさんざん遊びに使った毬杖(ぎっちょう)を3本真ん中に立てて柱にし、これに笹竹などを加えて焚き火をしました。これが現在の「さぎちょう」のもとです。左義長という字を書いて中国の人物に結びつける解釈もありますが、本当はこの三(さ)毬杖(ぎちょう)が正しいのです。確か東京国立博物館の所蔵だったと思いますが、「三(さ)毬杖(ぎちょう)蒔絵(まきえ)硯箱(すずりばこ)」という名宝があり、それにはこの三(さ)毬杖(ぎちょう)の様子がきれいに描かれています。

 後鳥羽上皇はスポーツだけではなく音楽も巧みな方だったそうだし、いちばん有名なのは新古今集を勅撰され、自身たくさんの名歌を残されています。この方の「桜さく 遠山鳥(とおやまどり)の しだり尾の ながながし日も 飽かぬ色かな」という歌は、百人一首にある「足引きの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝ん」の本歌取りですが、春の歌として私が最も好きなもののひとつです。

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